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「復 活 の 証 人」

聖 書 ルカによる福音書24章1~6節

1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。

3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。

4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。

5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。

メッセージ 「復 活 の 証 人」 滝本 文明 牧師

■(序論) 
イースターおめでとうございます。 聖書の預言が成就し、キリスト様の復活により、死は命に飲み込まれてしました。 受難週が明け、光に立ち給う復活のキリスト様の栄光が始まりました。

■(本論) 
主の弟子たちは総立ちになって主のよみがえりを立証し、そして今、私達が主の復活の証人となりました。失われた楽園と地の呪いはキリスト様の復活により払拭されてしまいました。


1)​過去・現在・未来の救い
復活は、三世(過去・現在・未来)の救いです。主の十字架を信じるあなたの過去の罪は、すべてあがなわれ消去され、「もう、あなたの罪は二度と思い出さない。見つけることが出来ない。」と主は言われました。現在も、未来も、十字架と復活によっていのちあるものに切り替えられました。復活は、いのちとしての聖なる能力を私達に注がれます。キリストの教会は、この一事のゆえに存在しています。

2)​人生の始まり・近づかれる復活の主
 人間は神様と結びつく時、本当の人生が始まります。世の中には、自身喪失、挫折、絶望の悲しみを多くの人が味わっています。楽園喪失を誰が回復してくれるでしょうか。私達は、大胆に答えます。「復活のキリスト様の手に、そのカギが握られている」と。七つの悪の霊を持った女性は聖女となりました。利己一点張りのザアカイは、愛の人に帰られ、優柔不断の強がり、二枚舌、裏切り者のペテロは殉教の光栄ある者の一人と変えられました。主の復活の力は、人間性を根底から改変してしまいます。13節~、主の方から近づいてくださった。失望と悲しみの中にいる時に。

■(結論)
復活の主は、私たちと共に道を歩み、私たちを導いて下さる真実な救い主です。失望と悲しみの中にある私たちに、主イエスはご自身から近づき、ともに歩み導かれ、痛みや悲しみを聴き、御言葉と聖餐を通し親しく私たちに臨まれ、私たちの存在の中心を燃えたたせて下さるお方です。

「 十字架のとりなし 」

聖 書 ルカによる福音書23章33~34節

33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。



メッセージ 「 十字架のとりなし 」 滝本 文明 牧師


■(序論) 
今週は、受難週です。イエス様の十字架上の言葉に耳を傾け、み言葉に聞きたいと思います。イエス様には、何も罪はありませんでしたが当時の宗教学者の妬みにより「どくろ」と呼ばれる場所で、二人の極悪人と十字架にかけられました。それは、当時のローマ帝国の最も残酷な処刑方法でした。

■(本論)
今日の箇所には、様々な人間が出てきます。イエス様を殺したくて、それが実現して、勝ち誇った態度を取る権力者たち、彼らは「他人は救った、もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」そう十字架上の、イエス様をあざけります。権力者に扇動されて「十字架につけろ」と叫んだ民衆は、ゴルゴダまでの道、ビアドロローサ、苦難の道、悲しみの道といわれるところを、歩まれるイエス様に対して、残酷な野次馬となって侮蔑しました。そして、嘆き悲しむ婦人たち、イエス様に代わって、十字架を担がされる羽目になった、キレネ人のシモン、ユダヤ人と同様にイエス様をあざける兵士、イエス様と一緒に十字架にかけられる犯罪者たち、などがいます。そして今日の場面には、出てきませんが、恐れて逃げて隠れている、男の弟子たちもいます。

1)私たちは知らなかった
 ところで、愚かなことをしているとき、本人は自分の愚かさに、気づかないということが、往々にしてあります。他の人から見たら、あんなことをしてと、心配されるようなことでも、本人はその時は、気が付かない、そんなことがあります。自分が失敗をしたり、痛い目をしたあと、ようやくその愚かさに気づきます。しかし、だいたいのことは、やり直しがききます。やり直して「あの頃は、ばかなことしていたなあ」と、あとから思い出すことができます。かつての愚かさから、人生の知恵を重ねて行くことができます。当時の民衆も、自分たちが何をしているのか、気が付きませんでした。今のロシアの市民と同じです。国家によるプロパガンダ、扇動が行われています。あなたは、真理に生きていますか?

2)恵みに生かされる
 私たちは、神様を殺すという、取り返しのつかない、ことをしたにも関わらず、恵みのうちに生かされているのです。主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいのです。」という言葉のゆえに、恵みのうちに生かされています。本来、取り返しのつかないことが、取り返せるように、イエス様は言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。神様を殺した私たちが、イエス様の父なる神様への、とりなしの祈りのゆえに、そして、イエス様が、十字架で神の怒りを受けてくださったゆえに、赦されました。そして恵みを受ける者とされました。

■(結論) 
私たちは、今も主イエス・キリストの、とりなしの祈りのゆえに、生かされています。私たちが、罪と知って犯す罪も、知らずに犯す罪も、イエス様は、とりなしてくださっています。イエス様のとりなしのゆえに、取り返しのつかないことはなくなったのです。
私たちは、いつでもやり直すことが出来ます。繰り返し失敗しても、繰り返し信仰が揺らいでも、私たちは立ち上がって、やり直すことができます。感謝。ハレルヤ! 主をほめたたえます。

「 み言葉、謙遜、従順

聖 書 列王記第Ⅱ5章9~11節

9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。

10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」

11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。



メッセージ「 み言葉、謙遜、従順 」 滝本 文明 牧師

■(序論) 
アラムのナアマン(原語では 「慈悲深い」という意味)は、大勇士で王にも絶大な信頼を置かれている偉大な将軍でした。しかし、彼には隠れたところに大きな悩みがありました。それは重い皮膚病にかかっていたことです。

■(本論)
1節には、主がナアマンに勝利とハンセン病を与えられたことが記されています。一寸見ると栄光と屈辱のように見えますが、この章はハンセン病が、彼に本当の神様を知らせる恵みの始まりであった、ことを告げています。

1)エリシャの言葉、ナアマン将軍の態度
 神様なしに生きている人々は、問題がないように思えても弱い存在に過ぎません。「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである」という描写から彼は国に大きな功績を立てた人物のようですが、いくら偉大で尊い人でも不治の病ハンセン病の前では、当時は絶望するしかありませんでした。 しかし、イスラエル出身の少女がナアマンに告げた一言は、一筋の光となりました。エリシャの使いの者がナアマンに「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」(10)と言いました。これに対してナアマンは激怒しました。

2)信仰、謙遜、従順を通してのいやし
 み言葉に信仰、謙遜、を持って従うとき恵みを受けます。
エリシャの家に着いたナアマン将軍は、自分を迎えるどころか会いもせず、使いを通してヨルダン川で七たび身を洗うようにと指示するエリシャの態度にひどく怒ります。特別ないやしの儀式を期待していた彼は、エリシャが自分を侮辱したと判断し帰ろうとしますが、13節、家臣の忠告を聞いて、エリシャの言った通りにすると、体は元どおりにきれいに癒されました。エリシャの命令はナアマンに神様の前での謙遜と信仰を教えるためでした。いやされたナアマンは、イスラエルの神様、創造主なる神様を信じます、と告白しました。(15節)

■(結論) 
人生の行き詰まりの中で、理解できない出来事に従うように導かれる時があります。不運と思えること、実は恵みの始まりでもあります。神様は私たち一人ひとりの悩みをよくご存じであり、助けの御手で守り、支え、導こうとしておられます。ペテロのように「み言葉ですから網を降ろします」と神様への従順と信仰のテストに勝利しましょう。



「 感謝、祈り、願い 」

聖 書 ピリピ人への手紙4章6~7節

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

メッセージ 「 感謝、祈り、願い 」 滝本 文明 牧師

■(序論) 
今日のみ言葉のポイントは「祈り」です。思い煩うことがあったら、感謝しつつ祈り、願い事を主に申し上げよ。
そうすれば、神様の平安をいただける、と語られています。

■(本論)
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。主は私達の荷を担って下さる。」(詩篇68:19)という御言があります。この表現は、私達は「日々」重荷を持っているという前提で語っています。私達が地上にいる間、心配事から逃れられる可能性はありません。

1)聖書的な思い煩いの解決方法
 6節「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」、この6、7節のポイントは、1)思い煩いをやめる。2)どんなときでも感謝する。3)願い事を神に伝える。4)神の平安が来る。です。最初にすべきことは、止めることです。心配は雪だるまのようで、一度斜面を転がるとどんどん悩みは大きくなります。止めるだけでも効果ばつぐんです。▼二番目にすることは、感謝の祈りです。「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって」とあります。小さなことを感謝し始めると幸せになります。小さな喜び、あたりまえと思えることこそ、幸せの源泉です。悩みが大きいときこそ、声に出して感謝の祈りをささげましょう。パウロはピリピの獄中で、賛美の歌をうたえる人でした。

2)願い事を神様にはっきり伝える
 「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。詩篇の42篇5節に、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。」と書かれています。同じように、問いかけてみましょう。わが魂よ、なぜ、おまえは心配しているのか。▼心配なことをクッキリ、ハッキリと、一つの文章にしてみます。あなたが、心配していることは何ですか。それを、はっきり神様に伝えましょう。モヤモヤしたままだから不安なのです。正体をはっきりさせましょう。それを、神に話しましょう。▼「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

■(結論) 
マルチン・ルターの言葉、「神のみこころにゆだねることができる人は幸いである。その人は決して不幸にはなりえない。人からいろいろ言われても彼は動じない。『神を愛する人たち、ご計画に従って召された人たちにとって、すべての事が相働きて益となる』ことを知っているからである」。

「 義のために迫害 」

聖 書 マタイによる福音書5章10~12節

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。


メッセージ 「 義のために迫害 」 滝本 文明 牧師


■(序論) 
今日の箇所は、いわゆる「山上の説教」と言われている五章から七章まで続く長い説教の中の最初の部分です。イエス様が、腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来ました。山の下に広がる斜面の先には、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことができます。

■(本論)
イエス様と弟子たちを取り囲むように群衆も集まりました。イエス様は、弟子たちと群衆に「あなたがた」と語りかけらます。ギリシャ語の原文では、最初に「幸いである。〇〇の人は~」という宣言から語られています。

1)義のための、「ののしり、迫害、悪口」 
 10節「義のために迫害」、「義」とは神様のご意思にかなう正しさです。第一ペテロ3:14節「義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いです。彼らのおびやかしを恐れたり、心を動揺してはならない」と勧めます。12節「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪を行う者に立ち向かう」P456。 パウロが、第Ⅱテモテ3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受ける」P416。と語り、ゆえに、動揺するな、ひるむな、恐れるな、と励ましています。

2)大きな報いが待っている
 迫害を受けている弟子たちに対し、イエス様は「喜びなさい。大いに喜びなさい」と語られます。なぜ、迫害を受ける者が喜ぶべきなのでしょうか。二つの理由が挙げられています。まず、迫害には天で大きな報いがある、ということです。もう一つは、迫害される者は預言者と同列に置かれる、ということです。イエス様のために迫害されることは、このような預言者の仲間に加わることであり、貴い使命を果たすことになるのです。
▼13節「あなたがたは、地の塩です。」塩には二つの効果があります。一つは、渇きを引き起こすことです。ポテトチップスにはたくさんの塩が付いていますが、それはわざと他のジュースを買ってほしいためだと聞いたことがあります。キリスト者によって、周りの人たちはまったく違う価値観がそこに存在しているのを知り自分も探ってみようか、と願うようになります。次に塩の効果は「防腐剤」です。少し塩でも腐敗を防ぎます。▼14節「あなたがたは、世界の光です」。16節「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる父をあがめるようにしなさい」 
◇異邦人ルツ、遊女ラハブの信仰、キリストの系図への恵み

■(結論) 
私達は、迫害を恐れ義を隠さず、世の中に対して光を輝かせる必要性があります。そして人々が「天の父をあがめるようになる」ことを願い主の道を生きましょう。

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