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「いのちの糧」 (末吉貞雄牧師)

聖 書
マルコ8章14-21節(80)
8:14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
8:16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」


 「天にまします我らの父よ」の呼び掛けで始る主の祈りの中で、イエス・キリストは私達に二つの祈りを教えられました。『神様が祈っておられる事をあなた方の祈りにしなさい』これが第一です。第二は『皆さん自身の事を祈りなさい』です。それは四行目から始まります。キリストは言われます『皆さん自身の事で第一に祈るべきことは、日用の糧が今日も与えられる事です』。糧と翻訳されていますがパンという言葉が使われています。

 山崎、敷島、フジ、京都市内には駸々堂、城陽にはピーターパンがあります。ガリラヤ湖の上を船で渡っている途中、パンを一つしか持ち合わせていな事に気付いた弟子達が議論を始めました。「どうしましょう」「ベツサイダに着いたら、どこかのパン屋さんに買いに行こう」「港の真ん前にあるパン屋がおいしかったよ」「確か、町の中にもう一軒あるパン屋の方がおいしかったんじゃない」。私の想像ですがこの様に話が盛り上がった時に、イエス様が呆れてものが言えない思いをブッチャケられました。弟子達はちょっとビックリだったと思います。

 皆さんはお分かりですか。イエス様の思い。弟子達は15節「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」というイエス様の言葉を聞いていたはずです。しかし、耳がありながら聞えていませんでした。その時の経緯をもう少し詳しくお話ししますと、その日イエス様一行は舟でガリラヤ湖の向こう岸の22節ベツサイダへ渡る予定ではありませんでした。11節パリサイ人達が議論を仕掛け、特に天からのしるしを求めてイエス様を試そうとやって来たのを見て、イエス様は彼らから弟子達を離す為に、急きょ舟に乗るように指示した様です。急いだせいで弟子達はパンを持ってくるのを忘れました。

 パリサイ人たちとその仲間だったヘロデ派の人々は、外見上は信仰心のある宗教的な人に見えましたが、その内面ではイエス様がキリストであることを信じないし、イエス様に従わない人々でした。パンの生地にパン種が入るとパン生地がその影響を受けて大きく膨らむ様に、見えない内面はそのままにして、外面だけを整え様とする人の影響も非常に受けやすいから、イエス様は彼らをパン種に例えました。

イエス様は既に弟子達に二回、非常に大きな経験をさせました。それは19-20節で言われている5つのパンで5000人と7つのパンで4000人のお腹を満たし、残ったパンが12籠と7籠だったという経験です。今ある一つのパンによって弟子達のお腹を満たすことぐらいイエス様には簡単な事です。しかし、イエス様があの経験で知って欲しかったのは、イエス様と一緒なら食べ物に関する心配はいらないという事ではありませんでした。では何なのでしょうか。今日、イエス様は皆さんに対してもそれを知って欲しい、と願っておられます。

ヨハネもその福音書6章(184ページ)で、イエス様が5000人にパンを与えた時の経験を伝えています。この6章は71節まであります。この奇跡を通してイエス様が伝えたい事は何かを延々と綴っています。特に187ページの47-51節を読んでみましょう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠の命を持ちます。わたしは命のパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べましたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことが無いのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」。

 昔、神様によってエジプトの奴隷から解放された人々が、神様のものとしての生活を始めました。それは信仰の旅でした。皆さんと重なりますね。その旅は荒野の中を進む旅でした。彼等は食料の事が心配でした。ところが神様は毎朝、空からマナというパンを降らせて、その旅が終わるまで彼らを生かされました。そのマナというパンはお腹を満たす為だけの糧ではありませんでした。そのマナで養われて40年の旅も終わりに近付いた頃に、指導者モーセが一堂に語った言葉が申命記でその8章2-3節を読みましょう。

 「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちになるものを知るためだった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。ということを、あなたにわからせるためであった。」

 今から約2000年前にパンの家(ヘブル語でベツレヘム)という町に一人の赤子が生まれました。その子は、天から下って信仰の旅をする全ての人を生かすいのちのパン、イエス・キリストです。食べるパン・食物・糧は、皆さんが生きるのに必要不可欠です。しかし、皆さんが今生きている命を授けられた神様は今日言われます『お腹を欲求を豊さを満たす、そういうパンだけでは、私があなたに与えたいのちは満たされません。あなたに与えたいのちが本当に生きるためには、天からのパン、イエス・キリストというパン、いのちの糧、神の口から出る言葉、が必要です』。人生の旅の途中で、立ち止まって、自らのいのちのことを思いやりましょう。いのちの糧は足りているでしょうか。飢えていないでしょうか。
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「我を用い給え」 (末吉貞雄牧師)

聖 書
マルコ16章14-20節
16:14 しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
16:19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。
16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕

 死人の中から甦ったキリストは40日間弟子達と過ごされ、天に帰られました。その最後の場面が今日の聖書です。皆さん、イエス様が他の宗教と同じ教祖で新たに出来る宗教団体の発展を目指すなら、優秀な弟子を養成し、その後綿密な伝道計画が立てられたでしょうね。第一永遠の命を持っておられるのですから天に帰らないでずっとこの地球にいる事も出来ます。しかし、イエス様は弟子たちの不信仰と、頑なな心をとがめ、「全世界に出て行き、福音を宣べ伝えなさい」という大雑把な伝道命令をするだけで、何の遺品も残さずに、頼りにならない弟子達を残して天に帰られました。不思議です。

 しかし、ここに教会の原点が明らかにされています。信徒の皆さんは昼から教会総会で2017年度の教会の活動について話合いをしますが、その前に教会の原点に注目しましょう。また信徒でない方々は、教会のメンバーに加わる事にちょっと不安を感じるかもしれませんね。現代は色々な宗教団体がありますから、その団体のメンバーに成ると言う事に対して非常に警戒します。教会の原点を知って頂く時、その不安はきっと解消するでしょう。

 15節の聖句に注目下さい。「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」「全世界に」「すべての造られたものに」と聞く時に感じませんか『何だか話しが大きいな、私には無理やなあ』と。それから16節「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は、救われます。しかし信じない者は罪に定められます」。ここだけを取り出して『信じなさい。信じないと滅びますよ』と言う人もいますが、イエス様は信じない者に対してこの16節を語られたのではありません。これから自分は天に帰り残された弟子達が伝道し教会が生まれ、そこに加えられた新しいメンバーも伝道します。イエス様はこれから伝道する教会のメンバーに15-20節を語っておられます。

 そしたら聞き方が変わって来ます。『自分が伝道に失敗して、相手から「もう私は絶対に信じない」なんて言われたらどうしましょう。イエス様は言われました「その者は罪に定められます」』。皆さん、こんな大きな責任を負い切れるだろうか、とまず思いますね。そして17-18節でイエス様は続けて、信じる者に伴うしるしを語られます。これを読むと、そのようなしるしが伴っていない不信仰な自分を認めざるを得ません。『イエス様、私たちが自信を無くすような言葉を最後に残して行かないで下さい』。

 しかし、皆さん、イエス様の最後の言葉ですから、きっと非常に重要なことを伝えておられるに違いありません。一つ言える事があります。15-18節は『伝道は私たちの力では決して出来ない。しかし天に帰られたイエス様、天におられる父なる神様には出来る』という事を伝えています。伝道は神様が、一人ひとりの人間を幸せに導くために行われる神の業です。が私達は何もしなくて良いのではありません。私達にも役目が与えられています。

 私が小学校2年の時に通った書道教室のお話をまたしますが、聞いて下さい。生徒はきれいな字が書けません。しかし、先生はきれいな字が書けます。きれいな字を書くために書道教室で、筆を握る生徒の手の上から先生が握ります。生徒は力を抜いて、自分を握る先生の手に100パーセント預けます。そしたら、力の入れ方、はね方、留め方、筆の運び片、流れと調子と勢いを感じます。そして字を書く先生自身から伝わって来る言葉に表せないものをも感じます。

 習字には二つの方法があります。先生が書いたお手本を半紙の下に敷いてなどる方法と、先生に手を握って頂く方法です。私達の信仰もこの二つに似ています。一つ目は、聖書や教会の教えをお手本にして自分の手で信仰という字を書きます。二つ目は、聖書や教会と接する中で神様に握って頂いた手で、信仰という字を書きます。『この二つ目の信仰で進みなさい』これがイエス様の最後のメッセージだったのです。

 19節イエス様が天に昇られた後、20節で弟子たちは出かけて行きました。「よーし、やったるぞー」と意気込んで出かけたのでしょうか。そうじゃないと思うんです。「イエスさま、私を用いてあなたが伝道して下さい。私のこの時間を、今いる場所を、頂いた能力を、与えられたお金を、・・・使って下さい。」と言って出掛けたのだと思います。つまり、主導権をイエス様にお譲りしました。そしたら、20節イエス様が彼らと共に働かれたのです。

 教会の原点は「我を用い給え」と言って神様に自分を献げることです。神様があなたの人生を用いて下さる、それが伝道です。私たちのすることは「主よわたしを用いてください」と祈って生活することです。これが教会と信仰生活の原点です。ですから教会は信者に伝道のノルマを課しません。「我を用い給え」と祈る生活を、皆さんが家に帰って送られる事、それが求められています。神様があなたの回りに幸せを生む為にあなたを用いられます。一年の計は元旦にありと言う様に。この礼拝は一週間の計です。献金、賛美、祈り、前後を含めての礼拝時間等、全てが献げることになっているのは、原点に帰る為です。さあ「主よ、我を用い給え」と祈る生活を始めましょう。

「死に打勝つ基督」 (末吉貞雄牧師)

2017年4月16日復活祭

聖 書
マルコ15章42節-16章8節
15:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。
15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。
15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
16:5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 私たちは死んだ後、時間的な経過は人それぞれですが、葬られます。葬り方は民族や土地柄によっても違いますし、身分によっても違うでしょうが、基本は変わりません。死に対して人間が出来る最後の行為、それが葬りであり、その実態は告別である。ここに死が人間を支配している現実が現れています。イエス・キリストも私たちと同様に葬られたからこそ、そんな私たち人間を救う事ができるのです。葬られて三日目が経つ間、陰府という死の世界まで下られた、と教会は信じています。人間のどん底を知っておられるイエス様であるから人間の救い主、キリストなのです。

 イエス様が息を引き取ったのは夕方近くでした。日が沈むと何もしてはいけない安息日と言うユダヤ人の特別の日となるので、そのままにして置くと、イエス様のご遺体は十字架にさらされたまま丸一日放置される事になります。しかし、弟子達はみな逃げ去りました。女達は悲しみの中です。特に母マリアのそばに集まっていたことでしょう。誰がローマの兵隊に交渉できるのでしょうか。不思議ですが、その時にアリマタヤのヨセフと言う人が思い切って名乗り出て、彼が中心に成って急いで遺体の葬りが行われました。彼はイエス様が神の国をもたらして下さる方だ、すなわち神様がこの世界を確かに支配して下さっている事を明らかにして下さる方だ、と期待していました。しかし、その期待は外れました。

 イエス様も死に打勝てなかった。せめて最後のお別れを、とヨセフはイエスの遺体を十字架から取り降ろし、亜麻布で包み、横穴式の墓に葬りました。ユダヤ人の習慣に従うなら、亜麻布で包む時に、没薬やアロエや香油を混ぜたものを塗った様ですが、時間が無かったので彼は亜麻布だけで包みました。彼は人間として最後に出来る事、すなわち最後のお別れをしました。

 さて、二人の女がヨセフの後に着いて行って、墓に遺体が安置される所まで見届けました。マグダラのマリアとヨセの母マリアです。二人は最後のお別れに立会いました。しかし彼女たちはイエス様の十字架を遠くの方から見守っていた三人組えした。その中のもう一人サロメはそこに立ち会えませんでした。その日の夜三人が集まり話合ったのではないでしょうか。『三人で最後のお別れをしましょう』。『じゃ、安息日が終わる日没に、お金を持って集合ろう。それで香油を買ってイエス様の遺体に油を塗って最後のお別れとしましょう』。

 さて早朝、女たちは墓に着いてから、入り口を塞いでいる大きな石をどうするかを話し合いました。どうして今?という感じがします。しかし、昨日に石の事を話し合っていたら「じゃ、最後のお別れは無理ね」と言う事になったと思います。不思議な話しです。この様にしてアリマタヤのヨセフも、この三人の女達も、イエス様と最後のお別れをします。皆さんもう一度言います。告別式に出られたことがありますね。告別は人間には避けられないどうする事も出来ない死に対して、人間が出来る最後の行為です。人間が死に全く支配されている現実がここにあります。

 しかし、キリストはこの死に打勝たれました。大きな石は転がされて墓の入り口が開いていました。天使が彼女たちを出迎え、伝言しました。「あの方は甦られました。ここにはおられません」。そして天使に墓の中を案内されて、遺体が無いことを確認しました。神様はこの三人の女達を死に打勝ったキリストの第一目撃者となさったのです。これも不思議な事です。当時の女性は目撃者としての資格が与えられ無かった時代だからです。

 341ページ、コリントへの手紙第一15章20節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から 甦られました」。神様はこの三人の女達だけではなくて皆さんにも、今日、告げられます。『キリストは死者の中から甦られました。それは眠った者の初穂です。遺族の皆さん、既に眠った人がいます。皆さんは、まだ眠っていません。しかし、いつかは眠りにつかなければなりません。最後の別れ、告別の時が来ます。私たちは死という眠りにつく者です。
 
しかし、キリストはそんな私たちの初穂として、死人の中から甦りました。キリストは私たちの初穂です。すなわち、私たちはその後に続く穂の様なものです。将来私たちも死に打勝って甦り、永遠の命を与えられます。これがキリストの約束です。私たちは死を経験します。しかし、キリストはその命が死で終わらないことを示されました。午後、墓前へ行きます。墓碑に「永遠の命を信ず」と彫られています。永遠の命を信じて死んでいった人々が眠っておられます。私たちは永遠の命を信じて、このからだを生きるよう勧められています。

生・老・病・死と言う四苦があるこのからだを、私たちが希望を持って生き抜く事が、永遠の命を信じると言う事です。そしたらキリストはそんな私たちを助け導いて下さいます。不思議ですが本当です。神様は不思議な事をなさる方なのです。だから、私は無理ですと決めつけないで下さい。神様はあなたにも働かれます。不思議な導きが必ず待っています。
さあ、信じる一歩を踏み出して下さい。

「主よ、憐れみ給え」 (末吉百合香牧師)

聖 書
マルコ10章46節-52節
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 昔、京都からお伊勢さんや高野さんへお参りに行くのに、奈良街道を南下したそうです。城陽教会から水渡神社参道を下り、JRの踏切を渡り、貯め池を横に過ぎて最初の信号のある交差点に出ます。そこを交差している道が奈良街道です。エルサレム参りの為にも街道が出来ました。イエス様もその街道を歩いてエルサレムに向かいました。そして途中の町々で色々な人と出会われました。とうとう最後の町エリコに着きました。ルカ福音書はイエス様がその町でザアカイという男と出会い、彼を救われた話を伝えています。

 しかし、今日読んで頂きましたマルコ福音書はエリコでは何もなかった様に、イエス様一行がエリコを出発します。そして次は目の前の山の上にあるエルサレムです。そこでは十字架が待っています。さあー、ここからは登りです。きっとイエス様は先頭を勢いよく登って行かれたと思います。

 その時です。後ろから『ダビデの子のイエスさま、わたしを憐れんで下さい』という叫び声がしました。テマイの子バルテマイです。かつて後ろからイエスさまの着物の裾を触った女性の様に彼も必死でした。イエス様は立ち止って「あの人を呼んで来なさい」と言われました。この出会いに皆さんへのメッセージが隠されています。

 この出会いは道端で起こりました。道端とは川の流れに例えると、中央の良く流れている所ではなくて、水際のことです。街道の真ん中を弟子達と、イエス様の奇跡を見たり、話を聞いたりした多くの群集は、ドドッと流れて行きます。

 教会生活をしていると、そういう流れに乗っている様な、みんなと一緒に流れているという感じの時がありますね。城陽教会のいつもの流れに乗っている、そんな安心感、居心地の良さというものがありますね。来年の春に50周年を迎える城陽教会らしさというものもありますね。さて皆さんエルサレムに向ってドドッと流れる弟子達と群集の中で、あることが起こりました。
「イエス様は、今そんな水際の事なんかに目を留める場合ではない」。そんな思いを持って、大勢の人がバルテマイをたしなめ黙らせようとしていました。その時に突然イエス様が立ち止られたのでした。

 50年たっても100年たっても教会が見過ごしてはならないこと、皆さんが立ち止まらなければならないこと、それがここにある、この道端で起こっている。これが今日のメッセージです。

 皆さんここで何が起こっているのでしょうか。イエス様の話も、その恵みの御業も見たことの無い、今で言うなら教会に一度も来たことの無い人が、叫び出したのです。「ダビデの子のイエスさま、わたしを憐れんで下さい」。

キリスト教会は礼拝で2000年間信仰を伝えて来たと言って良いぐらい礼拝は重要です。しかし皆さんそれぞれが聖書を手元においておられるような礼拝はつい最近まで出来ませんでした。つい最近と言いましても二、三百年ということです。その代わりに建物の形や絵や彫刻、ステンドグラスが聖書の代わりをしていました。目でみたり、手で触ったり、肌で感じたり、そして耳で聞く聖書として教会は音楽家にミサ曲を作らせました。ヘンデルとか、バッハとか、モーツアルトのミサ曲は有名です。楽器の演奏と歌で聖書のメッセージを表現します。聖書をミュージカルにした様なものです。

その中で必ず歌われる言葉があります。ラテン語で「キリエ、エレイソン」です。私たちの礼拝ではクリスマスに歌う「荒野の果てに」の中に受け継がれています。「グローリア」と「インエクセルシスデーオ」です。この二つの言葉もミサ曲の中で必ず歌われます。「キリエ、エレイソン」は礼拝の最初の方で歌われます。説教題の「主よ、憐れみ給え」がその意味です。

 これから礼拝が始まりますが、ここに私が立てるのは、ただ神のあわれみによってです。この教会の流れの中に私がいるのは、ただ神のあわれみによってです。今日もまず『主よ、私を憐れんで下さい』。「キリエ、エレイソン」そうみんなで歌います。皆さんこれはバルテマイの叫びから始まりました。
  憐れまれる事は好まれません、同情されるのは嫌なものです。「自分の事なんか誰も分かるはずが無い」そう思うからです。しかし、ここで言う「あわれんで下さい」とは、行き詰まってもう神に頼るしかないと言う、神様への信頼が表されています。

キリストに従って来た群衆が、バルテマイを叱って黙らせようとしました。なんと言う事をするのだろうと思わるでしょう。しかし、これと同じ事を今の私達もしていないだろうか?と問われている所でもあるのです。私達は神の憐みによって今ある事を忘れていませんでしょうか。人減はそれを忘れがちなので毎週のミサで「キリエ、エレイソン」と教会は歌って来たのです。そう歌ってきた教会ですが、その歴史を振り返ると憐みの無い事も行って来た現実があります。口で歌うだけでは不十分なんですね。聖霊に導いて頂いて造り変えられる必要があるのです。

 さて、バルテマイの次はイエス様の言葉に注目して下さい。「わたしに何をして欲しいのか」。今日この言葉は皆さんにも語られています。私達はその反対の事「わたしは何をしたらよいのですか」をまず考えていませんでしょうか。

 エリコに着く前、17節でイエス様はひとりの人と出会っておられました。彼はバルテマイと正反対でした。彼はイエス様に走り寄り、つまり道端ではなくて道の真ん中で、御前にひざまづいて「尊い先生、永遠の命を自分のものとして受ける為には、私は何をしたらよいのでしょうか」と尋ねました。バルテマイはイエス様の後について行きましたが、彼は去って行ったのです。ショッキングな出来事でした。

 バルテマイと彼を比較してどこが違っていたのでしょうか。彼は素晴らしいものを沢山持っていました。バルテマイは物乞いでした。彼は信仰の事は何でも良く知っていました。バルテマイは無学でした。しかし皆さん、これらの違いは大した問題ではありません。問題なのは「主よ、このわたしをあわれんで下さい」と言う姿勢です。

最後にもう一つの言葉に注目して下さい。「主よ、あわれんで下さい」とバルテマイが言っているのに、イエス様は「わたしに何をして欲しいのか」と聞き返されました。これは「あなたの思い願い、知って欲しいこと、分かって欲しいことは何ですか」と言う質問です。彼は答えました「目が見える様になることです」。盲目のままで生きる事がどんなに辛いか、イエス様この私の事を分かって下さい、と言う思いがこの言葉の中に凝縮されています。そして、奇跡が起こります。

皆さん、病気が癒された。障害が除かれた。そう言う奇跡を起こしてもらって御利益を受けた場合、お礼をしたり、その人を支援したり、教祖のごとく持ち上げたりはするかもしれませんが、従うと言う事は無いと思うのです。「私に従って来なさい」とも言われていないのにバルテマイはイエス様に従って行ったのです。「ああ、昔、道端でイエス様に叫んだ物乞いがいたなあ」で終わらなかったのです。イエス様が天に帰られた後、教会によってこの福音書が綴られた時に、教会のメンバーは「テマイの子バルテマイ」と言えば「あっ、あのバルテマイさんね」とみんな知っていた。つまり、彼はずーと従い続けたのでした。

 彼をその様に変えたのは何でしょうか。最後に一か所聖句を紹介します。ローマ9章16節303ページ「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」。『熱心な信者さんですね。立派な信者さんですね』とか言われても、バルテマイは常に自分の信仰の原点を忘れませんでした。あわれみを受ける事からすべてが始まります。

お祈りします。
天の父なる神様、どうか、この私を憐れんで下さい。あなたの憐みによって私を生かし、私も憐み深い者に造り変えて下さい。城陽教会が憐みを決して忘れる事の御座いませぬ様にして下さい。そして、この憐れみ深いキリストを証できますように助けて下さい。

では、皆さんもその場でお祈りください。しばらく、黙祷します。
・・・・
皆さんの祈りに合わせて イエス・キリストの名によって祈ります。

「休息の極」 (末吉貞雄牧師)

聖 書
マルコ2章23節-3章6節
2:23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
2:26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
2:28 人の子は安息日にも主です。」
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

 「わたしのところに来なさい」というキリストの招きから始まる1月の礼拝も最後となりました。この招きは「あなたはキリストに何を望みますか」という問い掛けでもあります。四連熟語で合格祈願、立身出世、商売繁盛、目標達成、家内安全、家庭円満、無病息災、そして最後は極楽往生。最近はポックリ往生とも言われます。私達日本人は年齢に応じて色々な望み目標を立てて頑張り続ける、と言うライフスタイルで日本社会を発展させて来ました。しかしその反面、過労が絶えません。

 私も長年「くたびれた」は禁句としてまいりました。11年前に体調を崩してから、くたびれた時は「くたびれた」と言えるようになりました。「わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。このキリストの呼び掛けは『あなたに忘れているものがあります。人間の基本・目標・望みは繁栄、発展、向上、進歩ではなく休息ですよ』と言う問い掛けです。

 例えば一日は「おはよう」で始めて「おやすみ」を目指します。聖書はキリスト教の聖典かつ人間のバイブルです。最初に記されている天地創造は人間の起源ではなく人間の基本がテーマです。神様が人間を含めて天と地を6日間で造られ、それを振り返って『good』と評価され、7日目に完成を宣言して休息されました。その時に7日間の中で7日目の休息の日を天地の被造物と神様にとっての特別の日に指定されました。

 なぜ天地の被造物にとってこの日が特別の日なのでしょうか。ヒントはこれから彼らがスタートするのに何が重要か?ということです。スタートするのに重要なのはゴールの確認ですね。皆さん、私達被造物の目指すべきゴールは、繁栄、発展、向上、進歩ではなくて、休息です。その日神様は一つの決断をなさったのです。「私も休んではいられない。明日から彼らと共にスタートだ。彼らと共に働き、最後には彼らと共に休息することにしよう。その日が楽しみだなー」。そして神様と被造物全体の共同の歩みが始まりました。この日は神様にとって忘れられない特別の日に成りました。

 その後神様は具体的にエジプトで奴隷であったアブラハムの子孫を解放し、彼らと共に歩まれました。神様と彼らが共に歩みそして最後に共に休息する、この人間の基本の事を忘れない様に神様は彼らに生活リズムを与えられました。それが十戒の第四番目「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」です。6日間神様と共に働いて週末の7日目は神様と共に休む安息日という特別な日と定められました。教会はこのリズムを受け継いでいます。

 2月の賛美に新聖歌8番(讃美歌56番)が選ばれました。「七日の旅路 安けく過ぎて 御前に集い かしこみ仰ぐ 今日こそ天の 休みのしるし」。皆さんは過ぎました一週間の歩みを終えられ、こうして教会に集まっておられるのですが、この歌はその歩みは「安けく」過ぎたと歌います。皆さんの中には、先週は大変だったと思われる方もおられる事でしょう。なぜ「七日の旅路、安けく過ぎて」と歌われるのでしょうか。

新聖歌252番1番に「悲しみは波のごとく わが胸満たす時」とあります。2番に「悪しき者 迫り来とも 試みありとも」とあります。でもこの歌はその後に繰り返し歌います。「全て 安し 御神 共にませば」。七日の旅路が「安けく過ぎた」のは「御神共にませば」だからです。日曜礼拝は神様と共に休む休息の極を目指して、神様と共に歩んむ人間がここにいる、そういう人間の基本を大事にする者たちがここにいる、そのしるしなんです。

 日曜礼拝はホッとする所です。リクリエイトされる所です。元気を頂く所です。皆さん色々表現できますね。しかし、それでは不十分です。ホット出来る所、リクリエイトされる所、元気を頂く所は他にもあるからです。神様と共に歩み、神様と共に休息する、この人間が忘れてはならない基本を確認する所、その目印になる所は城陽にここしかありません。

 神様は天地を創造された後、全被造物と共に歩み、共同体として生きて、最後に皆と一緒に休息する、休息の極というゴールを目指してスタートされました。安息日はそのしるしです。キリストが怒られるのは、人間が本末転倒することです。皆さん2章27節の「安息日」の所に今一番気に成っている言葉を入れてみて下さい。そしたら、私たちも何に支配され本末転倒になる危険にさらされているのか、そして本当の幸せを逃しているかに気付かされます。

キリストはご自分の命という代価を払って、私達をその支配から買取り、神の支配下に入れて下さり、本末転倒に気付かせ改めさせて下さるお方です。このキリストを信じて神の支配の中を神と共に歩み働きましょう。ゴールは神と全被造物と共に与る休息の極です。ここから人間中心の視点ではなくて、全被造物と共同体として生きる地球規模の視点が生まれます。後回しにされて来た環境保全から、経済や外交やエレルギーや教育や福祉を考える必要があります。ゴールは発展進歩繁栄ではなく休息です。国家からあなた自身の人生にいたるまで、本末転倒になっていないかよく見極める必要があります。今日もイエス・キリストと確り繋がり、見極める目にしていただきましょう。
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