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「 今日を忠実に生きる 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカの福音書12章35‐48節
35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。
36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。
39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」
42 主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。
43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
44 わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
45 ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、
46 しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。
47 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

週末の時を遅らせる理由
 主人が婚礼に出かけて行きました。その主人が帰って来たとき目を覚ましているのを見られるのは幸いです。私たちも「ただ今」と帰宅した時、「お帰り」と返事が返ってくるのを聞くのは、本当に幸せなことです。私たち夫婦は亭主関白ではありませんし、携帯電話をもっている時代に生きていますので、遠くに出かけたときでも「今城陽駅に着きました」とメールを送ります。しかしこの主人は、真夜中なのか、夜明けになるのか分かりません。ユダヤ社会の婚礼は夜更けまで行われるのが、この当時の慣習だったようです。待つ身としては嫌ですね。

 さて、この主人は婚礼の花婿ではありません。婚礼のお祝いに駆けつけているのですが、目的はそれだけでは無かったのです。p463Ⅱペテロ3章9節にこうあります「主はある人たちがおそいと思っているように、その約束の事を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです」
この主人は、婚礼の席で新郎新婦はもとより、参列者ひとり一人に神の救いを宣教していたのです。喜びの席に参列している人々に、婚礼の喜びと同様に神様の花嫁となる喜びを、時間を忘れて宣教していたのです。それで、帰宅が真夜中になるのか、夜明けになるのか分からないのです。この理由であるなら、納得ですね。神様は終末を遅らせて、すべての人が救われる事を切に願っておられます。私たちもこの主人が心置きなく宣教してくださるように、起きて祈りを持って忠実に主人の帰りを待つ者でありたいと思います。
以前、嵯峨教会にいた時に教会でレディースランチョンをしていまして、そのゲストとして持田松代先生に来ていただきました。お帰りの時間が予定より随分遅くなってしまいまして、哲弥牧師がご心配なさるのではと思い、お電話をしますと伝えましたら、「私は宣教に出かけているのです。その帰宅が少し遅いからと言って、牧師が心配などしていてはいけません。電話は不要です」とおっしゃられて、先輩の牧師夫妻は聖書の世界に忠実に生きておられると感心したのを思い出します。
終末を知る者
 今年、私達はドイツの息子を訪ねる事が許され、本当に感謝しています。ドイツで驚いた事があります。電車の駅に改札がありません。特急電車では車掌が回って来ましたが、その他はホームに入る時も、出る時も何のチックもありません。経費削減の意味もあるでしょうが、やはり、今日を忠実に生きるという聖書の信仰があることに対する国民への信頼なのではないかと思わされました。終末があることを知っているのです。
いつ帰ってくるのか分からない主人を忠実に待つ僕の姿は、終末を知っている人のことです。終末が無いと考える人は、無賃乗車という悪魔の誘惑に落ちるでしょう。見つかっても、高々5000円ほどの罰金です。しかし、だからこそその人の忠実さが問われる思いがいたします。5節の言葉が響いて来ます。「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」また、Ⅱコリント4章18節「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」このみ言葉も響いて来ますね。
私たちの神様は、見えない事を見ておられます。主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。ここにいる私達は、このことを知っています。一日一日をこの主人を知っている者として、忠実に歩ませていただきましょう。
この方を知っている者は、「忠実で賢い管理人だ」とイエス様はおっしゃいます。
素晴らしい給仕長
 帰って来た主人に、目を覚ましているところを見られる僕たちは幸いです。どのように幸いでしょうか。主人は夜通し宣教をして帰宅しているのに、「ああ、疲れた。風呂に入って寝る!」とは言いません。目を覚まして待っていた僕たちを見ると、またまた嬉しくなって、もう一働きしてくださいます。これは驚きです。「私たちを見守る方は、まどろむことなく眠る事も無い」という詩篇の言葉が思い出されます。
「主人の方が帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をして」くださるのです。そして「後片付けはあんたたちがしてや」とはおっしゃらないと思います。後片付けもこの主人はなさるのです。こんな幸いがあるでしょうか。私たちの信じる主人は、何と素晴らしい主人でしょう。

 主人が側にいて給仕をしてくださる食卓というのは、聖餐の食卓です。ドイツの教会を訪ねながら、改めてカトリックの良さを思いました。ミサでは必ず聖餐が行われるからです。出席するたびに主の給仕を受ける事ができるのです。私たちの教会では、今日は聖餐がありませんので、その聖書の箇所を開きましょう。
p56マタイの福音書26章26‐28節
また、彼らが食事をしている時、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに取って与えて言われた。「とって食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
 私達は今朝、この言葉の聖餐を頂きましょう。
見えない主人に忠実に生きる僕には、イエス様はご自身をささげてくださいます。
「小さな群れよ、恐れることはない。あなたがたの父は、喜んで御国をお与えになる」これが主人の心です。
私たちは何時主がおいでになっても良いように、一日一日を忠実に歩みましょう。

説教要旨
私たちの主人は昨日も今日も明日も失われた魂を救うために、宣教してくださるお方です。あまりにも熱心で、帰宅は何時になるのか分からない。終末を伸ばしておられる。主人は忠実に待つ僕を喜ばれる。恐れるべき方を恐れ、見えないことに忠実に歩めと。忠実な僕には素晴らしい食卓が待っている。その身をささげた食卓が。私たちの主人はいつくしみ深きお方。

「 小さな群れよ、恐れるな 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカの福音書12章13-21節
13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」


ルカ12章は、主の私たちへの切々たる思いを感じさせる箇所ですね。

 ある人が、イエスさまのところに来て遺産相続の問題を解決してくれるように頼みました。この人は兄弟から自分の相続分を分けてもらえなかったのです。ですから、彼がイエスさまにその仲裁を求めたのは当然のことでした。彼にはその権利があるからです。しかし、イエスさまはその調停役を断られました。
何故でしょうか。

この人には遺産相続する前に気づかねばならないことが一つあったのです。この問題が持ち上がったときに、最も重要な事は何であるか、そのポイントを見誤っていました。
15節のイエスさまの言葉を見てください。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないからです。」このイエスさまの言葉は、彼が今どのような思いでイエスさまのところにやって来たかを示しています。
この人は、財産が自分の命を守ってくれる、と考えたのです。でも、イエスさまは人の命は財産にあるのではないと教えられました。

先日のテレビで、被災地の産業を応援する市民投資家の存在を報道していました。小さな会社や商店への投資を日本全国の市民に呼び掛けるものです。投資する対象が小規模ですから、銀行や政府の機関ではなかなか投資できないのです。義援金や通常の融資とは違って、相手の顔が見える投資です。一人が2,3万円で出来る投資です。そこには、人と人との関係が生まれます。投資する方の地域と被災地がつながります。私もそのような投資ならやってみたいと思いました。また、この震災によって、日本のGNPは世界3位に落ちたそうです。その番組のゲストの方がおっしゃっていました。日本はこの復興後に、また、世界一を目指すのでしょうか?そうではなく、心の豊かな復興後の社会を目指すべきではないでしょうかと。本当に同感です。
戦後の日本がGNP世界一を目指して頑張ってきた。その事は、貧しさからの脱却や国際社会に認められるということで、意味のあることだったでしょう。その経験を通して、この世の豊かさ、今日の聖書の言う財産ですね、それが真に命を豊かにするのではない事も学んだはずです。
今回の震災において、復興の為に膨大な予算が必要です。ひとり一人が心を豊かにする財産の用い方を学びなさいと言われているように思います。

イエスさまの視点もそこにあるのではないでしょうか。
それを示すために、たとえを話されました。もう一度読んでみましょう。16-20節参照。
20節「愚か者。お前のたましいは、今夜おまえから取り去られる。」
先週は「友よ」と呼んで下さったのに、今朝は「愚か者」です。まるで、天国から地獄に突き落とされたような感じですね・・いやいや、これは、遺産相続を頼んできた男に言われたんだ、と読むべきでしょうか?
神さまの領域を侵す危うさ
しかし、厳しさの裏には深い愛があるのですよね。イエスさまのたとえをもう一度注目してみましょう。
ある金持ちの畑が豊作になりました。それは、何年先までも生きられるほどの豊作でした。17節の「作物」18節の「倉」「穀物」「財産」この言葉には、原語では「私の作物」「私の倉」「私の財産」「私の穀物」となっています。「私の」とはどういうことでしょうか。彼は、それらはすべて自分だけのものだと考えているということです。しかし、本当にそうでしょうか。それは、おかしいですね。それらは自然が与えた恵みです。
自然界が荒れ狂うなら畑の豊作は望めません。ですから、豊作は自然界の恵みです。今年の沖縄はゴーヤが無いそうです。台風2号の暴風で塩害となり収穫できなかったそうです。また、マンゴー畑のハウスが吹き飛ばされ大打撃を受けたそうです。豊作は神さまの造られた自然界が穏やかな年に与えられる恵です。
人類は進歩しましたが、今年の震災の犠牲は膨大なものです。人間は、自然界に対しても何と小さな存在でしょうか。現代でも、自然界が荒れ狂うのを止めることもできないどころか、予知さえ出来なかった小さな存在です。しかし、それにもかかわらず、すべてのものを自分で得たかのように思い違いをしています。人類が見出している事は、神様が作られた法則を見出しているだけです。しかもほんの一部にすぎません。この金持ちは現代の私たちのことです。
だからイエスさまは、「愚か者」とおっしゃるのです。すべてのものは神さまが与えておられるのではないのですか、とおっしゃるのです。
もう一箇所、19節を見てください。彼は言います。「自分のたましいにこうに言おう。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」
周りの事など、まるで考えていない言い方です。
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者は愚かです。
一人で乾杯している金持ちの姿は哀れです。与えられた豊作を、周りの人々と分かち合うなら、その喜びは何倍にも大きくなります。このことは、神の前に富む事に他なりません。
神の前に富む
愚かな金持ちのたとえに続いて「だから言っておく。命のことで思い悩むな」とみ言葉が続きます。この次の段落で重要なのは31節の「神の国を求めなさい」です。21節の「神の前に豊む」とは、「神の国を求める」ことです。神の国を求めるとは、高く広く深い神さまのご愛を一つひとつ知る事です。
そういう意味でも、先週のファミリーキャンプは恵を一杯頂きました。台風到来前日、晴天に恵まれ楽しい一時を過ごしました。午前中から気温はうなぎのぼりでバーベキュウはどうなるかと心配でしたが、夕方涼しい風が吹いてみんなおなか一杯食べました。プールタイムには近所の親子連れが参加、その後二人の小学生も水遊びに参加してくれました。バーベキュウも初参加が大人約10名こども5名ありました。ご案内した方々の中で不参加の方々への心残りはありますが、神様の大きな恵みの内にあったことを深く感謝しています。また、台風が去って、急にセミの鳴き声が大きくなりました。でも、北風がさわやかさを運んできて、ちょっと一息でき、キャンプの疲れもすっかり取れました。日々の中で、毎日の繰り返し起こること、小さな変化、その中に神さまのご愛を見つけられることはとても幸せです。
人の命は財産にあるのではなく、神の前に豊かになることによって守られます。これが命の本当の豊かさです。

32節の「小さな群れ」とは教会のことです。私たちのことです。「小さな群れよ、恐れることはない」とありますのは、教会は常に神の国を求めるなら、神の前に豊なのです。
キャンプの中でドイツの教会も見ていただきましたが、15年前森本先生たちがドイツの教会を訪れた時は、ミサにほんの数人だったそうです。私もヨーロッパの教会は世俗化していると聞いていました。しかし、今回行ってみて、2、300人クラスの教会のミサに40人程の方があり、ミサは一日に4,5回行われますので、次のミサのために側廊で待つ人たちがいました。毎回40人が集まっているとすれば、世俗化を克服してきた事になります。また、いくつもの教会がコンサートを計画していましたし、懸命に宣教しているのを感じました。日本の教会も高齢化や様々な困難の中にありますが、「小さな群れよ、恐れることはない」と今朝も励まされます。
教会は神さまによって守られることを忘れてはなりません。
私たちは、日々父なる神さまの親心に気付かせていただきましょう。

説教要旨
神は私たちの髪の毛の数までご存知であるほどに心に掛けてくださる。私たちはそれを聞いている。しかし、群集のひとりのようにこの世の価値観に左右されやすい者である。恐れるべき方は主のみであるにも関わらず、この世のものに支配されている。全く愚かな存在である。主は「神の前に富む者となれ」とおっしゃる。烏や野のゆりを見よと。神の国を求め、神の前に富む者となるために、日々、注がれている主の愛を感じ取ろう。主は「小さな群れよ、恐れることはない」と励ましておられる。

「 一羽の雀さえ 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカによる福音書12章4-7節
4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

主に友と呼ばれる恵み
 4節に「わたしの友であるあなたがた」とあります。今朝、イエス様はここに集まって今聴いているわたしたちを「私の友よ」と呼んでおられます。この「友」と呼んでくださる恵みに、まず、注目しましょう。
 ヨハネの福音書15:15でイエスさまはこう言われています。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。」このヨハネのみ言葉から考えてみましょう。
 僕というのは現代人の私たちには少しピンときませんが、僕というのは主人の言うとおりに忠実に行動する、そういう存在です。皆さん、私たちが何かをしようとして、誰かに相談に乗ってもらいたいと考えるとき僕に相談するでしょうか。私たちは、相談相手には最も信頼できる友を選びますね。
 イエスさまはそのような存在として私たちを呼んでおられます。
何とも間違いやすい、愚かな、とても信頼していただけるような者ではない優柔不断な私たちを今朝「友」と呼ばれます。イエスさまと言う主人が何をなさりたいのか十分理解しているわけでもない私たちに、「わたしの友よ」とおっしゃいます。
 そして、この「友」という呼びかけが誰に使われているか、他にも調べてみました。p57マタイ26:50にも使われていました。イエスさまを裏切ったユダにさえも「友よ」と呼びかけておられます。50-54節参照。裏切り者といわれるユダですが、彼にも役割があったのです。その役割が果たされてイエスさまの十字架による神さまの救いが完成したのです。これは、神さまのなさることは人間にはとても計り知れないことを示しています。裏切り者ユダを友よと呼びかけてくださるイエスさまでした。
しかし、考えてみてください。この裏切り者とは誰のことでしょうか。私たちのことです。イエスさまがこの地上におられたとき、私が弟子の一人とされていたなら、きっとサタンに唆されユダのように振舞ったか、他の弟子たちのように十字架のイエスさまを置き去りにして逃げたことでしょう。そんな者を「友よ」と呼んでくださる主なのです。この主の愛は、ほとぼりが冷めたからとか、水に流して許そうという、浅い薄っぺらな愛ではありません。私たちのそれとは全く異なる愛です。私たちは主の愛を安価なものにしてはなりません。十字架の愛を安価なものにしてはなりません。こんな私たちを主は、「あなたは高価でと尊い」といってくださる真実な愛なのです。「友よ」という呼びかけには、この主の愛が示されています。

私たちは主の愛を最も高価なものとして今朝もう一度受け取りなおしましょう。
全能の神様を恐れよ
さて次に、主の愛を受けた私たちに、イエスさまは弟子たる自覚を与えるために教訓を授けられます。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」これは、肉体の死後、永遠の死に対して、神さま以外のものは何一つ手を出せないということです。永遠の命に関しては、全能の神さまだけが権威を持っておられるからです。しかしここで何故、真に恐れるべき方を知る必要があるのでしょうか。それは、イエスさまの弟子は迫害されるという運命が待っていることを前提されているからです。つまり、誰を恐れるかによってこの地上での生き方は違ってくるのです。
ルカ9:23にこうあります。「だれでもわたしについて来たいとおもうなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」
ここで言われている十字架は、病気やこの世の苦難や不幸そのものではありません。イエスさまの十字架の愛を宣べ伝えようとするときに起こってくる困難のことです。つまり、病や苦しみに会う日々の中でもなお主の愛を感謝し、主を愛し最後まで従うものは、命或は平和をいただくのです。困難の中にも平安がある、それが、救いの中にいることです。
これが、全能の神さま以外何者をも恐れる必要はないという、また、イエスさまに対立してくるどんな力をも恐れる必要はないという、イエスさまの勝利宣言です。つまり、私たちが恐れ敬うべきお方は、神さま唯お一人です。
神はあなたを決してお忘れにならない
神様はこのように信じるものを励ましてくださいます。しかし、自分の十字架を負うて従っていくということは簡単ではありませんね。苦しみの中で主を賛美し感謝しなさいというのですから。
イエスさまは私たちの弱さをよくよくご存知です。ですから、6節以下でねんごろに神さまの愛を示してくださいます。

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」
一アサリオンは一デナリの16分の一です。一デナリは一日の賃金です。一日8000円とすれば、一アサリオンは500円になります。つまり、現在の計算では、五羽の雀が1000円の価値ということになります。一羽200円です。そんな小さな存在の雀一羽さえも、神さまはお忘れになることは決してないと言ってくださいます。
「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者です」私たちが気にも留めない小さな雀一羽さえお忘れにならない神さまです。私たちのことをほおって於かれるはずがありません。ご自分の保護の中においてくださっています。私たちはこの神様に覚えられています。この事を深く知ると同時に、宣教も委ねられています。
私たちは災害という困難に遭遇する時、深く教えられることは存在の大きさです。今も行方不明の方のご家族は、その方の事を生存しておられた時以上に鮮明に記憶が甦ってくるのではないでしょうか。
わたしはその方々の事を神様は決してお忘れにはなっていないと思います。教会はこの福音を失望の中にある人々に伝える使命があると思います。現地に行ってくださるクリスチャンの方々がその様な思いを持って行って下さるなら、本当に幸いだと思います。
先日の研修会の講師は神父さんでしたが、もう何度も被災地を訪ねておられます。ご自分の内にキリストを宿していると確信して訪ねているとおっしゃいました。私たちも福音が現地に届く事を祈りに覚えて行きたいと思います。
説教要旨
今朝、主は皆さんを「友よ」と呼んでおられます。人間社会においては友などと呼べない関係である時に、主は「友よ」と呼んでくださる。ご自分が十字架において神の愛を示そうと決心しておられるからだ。復活された主は「平安」をくださった。その平安とは、私たちが気にも留めない一羽の雀さえ神は決してお忘れにならない、ましてやあなたの事は忘れることなどできるものか・・と語ってくださった。今朝のメッセージは、この愛に支えられる時、恐れるものは何もないとの宣言だ。我等はこの福音を伝え続けよう!

「 内なる人を神に献げよう 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカによる福音書11章37‐53節
37 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。
38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。
39 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
42 だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。
43 忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
44 忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
46 しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。
47 忌まわしいことだ。あなたがたは、預言者たちの墓を建てている。しかし、あなたがたの先祖は預言者たちを殺したのです。
48 そのようにして、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めています。なぜなら、あなたがたの先祖が預言者たちを殺し、あなたがたがその墓を建てているからです。
49 だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。
50 世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。
51 それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、(V.50挿入)そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』
52 忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」
53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。

素晴らしい内面をもつ存在として
 以前、青山学院大学の先生から、神の国と経済倫理という大変興味深いお話を聞きました。経済の倫理性に対してキリスト教はもっと声を上げていくべきであるということを強調されました。神さまの造られた世界は、皆で、造りあげていくものだという視点をもった内容でした。つまり宗教も含めて、造りあげていくものだというのです。ですから経済の市場にあってもキリスト教信仰というのが大きな役割を果たすことができるという視点です。

 JR西日本の電車事故、アスベストの今後の対応の問題、先日の九州電力の誘導メール、これらも、経済倫理の問題です。

 この先生は、学生に経済の仕組みの中で倫理性ということがいかに重要な部分であるかを教えておられます。先生はこのように話されました。現代は消費主義の中で、消費することで満足している時代。コマーシャルに振り回されている感覚的な混沌の中に生きている時代。ブランド物を持っているということが自分の存在価値、あるいは存在の意味になっている。つまり、ブランド物が架空の希望になっている時代。分かりやすい例えで言えば、時計であれば、時間を正確に刻んでくれる品物であればそれで十分なのに、オメガを持ちたいと思う時代。昔は、ブランド物は金持ちが持つものでした。しかし、現代は違います。皆がブランド物を持ちたいと思っている。つまり、消費することが生きがいになっている時代。しかし、それが豊かな生き方でしょうか。そうではなく、教養的な生活のための消費が必要です、と話されました。城陽の近くにドンキホーテのお店が進出したのはその現れですね。

 教養的な生活のための消費とは何でしょうか。それを考えるのにキリスト教はとても大きな働きをすることができます。

 今週の御言葉に40節を選びました。「愚かな人たち、外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか」
物質を造られた神さまは、人間の内面をも造られたのです。しかも、大変素晴らしい内面をもつ存在として造られました。旧約聖書の創世記に、神さまがすべてのものを完成されたとき、「見よ、それは非常に良かった」とあります。
非常に良い内面をもつ存在として人間は創られたのです。それなのに何故こんなに不完全な倫理性なのでしょうか。
 わたしはこのように思います。神さまが「非常に良い」と言われる人間の内面とは、自発的に神さまに仕えようとするそういう人間のことではないでしょうか。生まれたときから完璧な人間のことを、神さまは極めて良いと言ってはおられないと思うのです。つまり、人間がその生涯をかけて神さまに仕えていこうとする、神さまに仕えることの完成を目指していく、そういう人間のことを神さまは非常に良いと言われるのではないでしょうか。そして、それが「教養的な生活」だと思うのです。
「教養的な生活のための消費」
 では次に、「教養的な生活のための消費」とは何でしょうか。イエスさまは41節でそのことを言われます。「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります」これは、神さまに仕えることの具体的な行動は、困窮している燐人と富を分かち合うことだと言うのです。つまり「教養的な生活のための消費」とは、困窮している隣人と自分の持っているものを分け合うことです。その具体的な行動が、見えない神さまに自分の真実を表すことになると、イエスさまは言われます。
このことを具体的に示している箇所があります。マタイ25章14節以下p52のタラントの例え話です。主人が旅に出るというので、3人の僕に財産を預けて行ったお話しです。主人は5・2・1タラントとそれぞれにふさわしく財産を預けて行きました。タラントとは、一人ひとりに与えられた賜物です。具体的には、財産、時間、自分の好きなことで、それは特別に誰かより秀でている必要はありません。自分に与えられているものです。ですから、わたしには何も与えられていませんと言う人は一人もいません。
そして、そのタラントを用いるようにとイエスさまは言われます。1タラントを預けられた人がそれを活用しないで、土に埋めていたので大変なお叱りを受けました。さて、ではどのように活用すべきなのでしょうか。p54を開いてみてください。
タラントのお話は40節の「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言う御言葉に続いているのです。1タラントを最も困窮している人に施すなら、与った財産は残りません。でも、そこに目には見えないものが残るのです。それは喜びと感謝が何倍も残るのです。
このように小さな命を大切に考えて生きること。それが、神さまに仕える生き方であり、このような消費の仕方が教養的な生活をするということなのです。そして、その生き方こそイエスさまは求めておられるのです。

このような命を大切にする視点は、経済活動にも影響を与えます。資生堂の社長から現在会長になっている方は、クリスチャンですね。そして、資生堂は現在、老人ホームに出かけて行って、きれいにお化粧をしてあげるボランティアをしていると言うのです。お化粧によって若返った顔を見て、ご本人もまたそれを見る男性入所者の方たちも大変喜ばれているというのです。
また、自動車メーカーも交通事故が起きにくくするためにいろいろと工夫したものが考えられています。交通事故の死亡事故が半分は子どもと高齢者だからです。また、環境に優しい電気自動車ももう少しするとコストダウンして実用化されそうですね。これらも命を大切にする視点からでしょう。東日本大震災の経験は悲しい体験ですが、しかし、被災地の方々の心と体が守られ、クリーンエネルギーへと舵が切られ、自然と人に優しい経済活動が促されて欲しいと願います。
経済活動がそういう方向に向い、「外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか」とのみ言葉が響く私たちの社会になることを祈りましょう。

42節に、十分の一の献げものとありますが、現代においてこれは、イエスさまの十字架の死と復活を通して表してくださった神さまの愛に答えて、私たちの方からの感謝と愛の献げものです。
パリサイ人や律法の専門家と言われている人たちは、その理解において随分と的を外していました。彼らは律法で言われている十分の一の献げものさえしていれば、神さまを愛していることになると考えました。しかし、イエス様はもっと高みを目指すべきだと言われます。「公義と神への愛」というのは、先程の「最も小さいものにする行為」です。
それに気付かないパリサイ人に、イエスさまは気付いて欲しかったのです。このことは、わたしたちに対する主の思いでもあると思います。

「外側を造られた方は、内側もお造りになったのではありませんか」
神さまは、わたしたちの内側を「非常に良い」者として造ってくださった方です。私たちは愚かなものにならないで、神さまの愛に答えて内なる人をお献げして行きましょう。

説教要旨
創世記は天地創造を物語る。最後に人間を造られ、全てのものをご覧になり「見よ、それは非常に良かった」と神は言われる。ルカ11章40節に「外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか」とある。神は私たちに素晴らしい内面を備えて造ってくださったのである。その様に備えられた私たちはどのように生きるべきか。マタイ25章に答えがある。主は「最も小さい者たちのひとり」の隣人となることを求めておられる。「公義と神への愛」とはこのことである。神に愛されている事を知っている私たちは、神さまの愛に答えて内なる人をお献げして行きましょう。

「 神の指 」 (末吉百合香師)

ルカによる福音書11章14‐23節
14 イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。
15 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。
16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。
17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。
19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

祈りは信頼から
 先週は祈りが聞かれるためには信仰が必要であることを御言葉から確認しました。信じないで祈るのであれば、それは何とむなしい行為でしょうか。信じて祈るからこそ力になるのです。しかし、そこで思い違いをしてはならないことを一つ確認しておきましょう。何を信じて祈るのでしょうか。祈るときに自分の信じる力が強いか弱いか、それが問題なのでしょうか。そうであれば、祈りの力は自分の側に掛かっていることになります。自分に責任があることに成ります。しかし、祈りの力はそこにあるのではありません。祈りの力は、主イエス・キリストにあるのです。主イエス・キリストが100パーセント信頼に足る方であるからこそ、祈りに力があるのです。私たちはイエスさまに「お願いします」と祈っていながら、その後で一生懸命心配しているということがないでしょうか。皆さんも心当たりがありませんか。私もあります。しかし、イエスさまに「お願いします」と祈ったなら、後は心配しないでお任せするのです。それが祈りの力です。それは、自分は何もしないということではありません。自分もできる限りのことをしつつ、後はイエスさまにお祈りしてお任せするのです。そこに平安が来ます。それが祈りの力です。

 さて、今朝の箇所も主イエス・キリストを信頼するかどうかそのことに掛かってくる箇所です。23節のイエスさまの言葉がそのことを表しています。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」「味方でない者」「共に集めない者」という言葉の代わりに「信頼しない者」と入れても同じ意味になります。つまりイエスさまは、信頼しない者ではなくて信頼する者になりなさいと言われているのです。
神の国の到来
 ここでイエスさまは悪霊を追い出しておられます。この悪霊とは人生の問題、私たちが解放されなければならないもの、そういうものでしょう。その当時、同じ賜物をもっていたのはイエスさまだけでは在りませんでした。19節に、「あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか」とありますから、他にも悪霊を追い出す力を持っている人がいたのです。しかし、イエスさまが悪霊を追い出すのを見て、批判する人がでてきます。彼らは、自分たちの仲間が同じことをしているときには賞賛するのに、イエスさまに対しては批判するのです。彼らはイエスさまの活動がメシア運動に発展していき、自分たちよりもイエスさまの方が人気を博するのではないかと不安になったのです。それでイエスさまが、悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出している、なんて言い出したのです。
 イエスさまはこの人たちの心をお見通しです。しかし、イエスさまにとってそんなことはちっとも問題ではありません。イエスさまの目的は、彼らと張り合うことでも対立することでもありません。イエスさまの目的は敵対してくる者にも何とか福音を知らせたいということです。

 それで言われました。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」つまり、イエスさまは、自分がこの地上に来たということは神の国がもう来ていることなのだ、とおっしゃったのです。
 皆さん、イエスさまの言われる「神の国」とは、私たちが死んでから行く「天国」のことではありません。「神さまの支配」のことです。イエスさまが来られたことによって、神さまの全く新しい支配が始まったのです。主の祈りで「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りますね。天、つまり「神の国」ではいつも神さまのご計画(御心)が行われています。それが、この地上でもいつも行われますようにと祈っているのです。神の指で悪霊を追い出されるイエスさまとは、神さまの御心を行われるイエスさまを表しています。イエスさまは自分を批判する人たちに、自分が神さまの御心を行うために来たのだという事を知らせておられるのです。
主を信じる私たちは、既に神の国に生かされているのです。

人生の問題を共に戦われる神
さて、その支配とはどういう支配なのでしょうか。
今日の箇所でイエスさまが「神の指」で神さまの支配を表しておられますので、それをヒントに考えてみたいと思います。詩篇8篇3、4節旧約p912も神の指の業を表しています。月も星も配置されるそんな偉大な方が、人間のことを心に掛けてくださいます。ここから神さまの支配とは、人間のことを心に掛けてくださる神さまがおられるということです。
そしてヨブ記からも神さまの支配ということを考えてみたいと思います。ヨブは10人の子どもと全ての家畜を一日にして失い、自分にも全身に腫れ物ができるという試練に会い、自分の生まれた日を呪います。ヨブ記はヨブの友人三人とその付き添いのエリフとの長い問答を記しています。そして神さまは38章に至ってようやくヨブに声を掛けられます。3章から37章までの長い問答は何を表しているのでしょうか。人間の人生の問題を一つひとつ表しているのではないでしょうか。或いは、人間の悩みがいかに深いかを表しているのかもしれません。旧約p899を開いてみてください。
沈黙を破られた神さまは、嘆いているヨブに向かって38:3で、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」と言われます。ここで、神さまはヨブのことを男らしくないと、責めておられるのではありません。2節で、神さまは「この者はだれか」と言っておられます。詩篇8にも「人の子とは何者なので」とありますが、神さまは、ヨブに対して「お前はわたしに対してどういうものなのか」と聞いてくださるお方なのです。そして、全身全霊をもってわたしにあなたを見せなさい、と言われます。あなたの奥深い問題をわたしに見せなさいと言われるのです。
そう言われた後ヨブに、ご自分の指の業を一つひとつ示されます。それはヨブ記38章‐41章に及んでいます。その内容の一つひとつが神さまの偉大な指の業を示しています。そして、40章に至ってこう言われます。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言い立ててみよ」と。
 神さまがどんなに偉大で自分を心に掛けておられると知っていましても、人生には不条理だと思えることがあります。到底乗り越えられないと思える出来事があります。それほど相手は強い力を持っていると思えるときがあります。ヨブはそう感じていたのではないでしょうか。
そんなヨブに、神さまの力強い指の業をなお語られます。ヨブは最後に答えます。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を」42:3
 ヨブは自分の中で悶々としていたのではありません。それはヨブの物語が42章に及んでいることで分かります。ヨブは自分の問題を抱えて、とことん神さまに向かって行ったのです。しつように神さまに向かって行ったのです。そういう中で彼は、神さまの支配の中にあることを知り、その幸いを知り、このように答えることができたのです。「わたしには理解できず、わたしの知恵を超えた驚くべき御業をわたしに行ってくださるのですね」と。

わたしたちに神さまの力強い御支配を知らせてくれる御言葉がイザヤ書49:25-26にあります。抜粋。
「あなたの争うものとわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う。・・・すべての者が、わたしが主、あなたの救主、あなたの贖い主。ヤコブの力強き者であることを知る。」

 ルカに戻りましょう。わたしたちも信仰していても、信じられなくなるときがあると思います。
しかし、イエスさまは「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出したのですから、神の国はあなたがたに来ているのです」と今朝もう一度言われています。これは、あなたは今、神の指によって確かに神の支配の中にいるという約束です。わたしたちも今週自分自身を神さまにとことん見ていただきましょう。自分の問題をしっかり抱えて神さまにしつように向かって行きましょう。

説教要旨
 信仰とは信頼である。祈りの力は、主イエスへの信頼の力である。今朝の主は、悪霊を追い出される主である。聖書の示す悪霊とは、人生の問題、病、苦悩という、私たちに立ちふさがる様々な力である。主はご自分の業を神の指の業と表現された。主は、私たちの人生の只中で神の指によって戦っておられる。すなわち、神の国が到来しているのだ。私たちは果たして神の指を信頼しているだろうか。ヨブ記はヨブと神との格闘の物語である。主は同様にご自分と格闘するようにと求められる。