INDEX    RSS    ADMIN

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「 苦い水 」 (末吉百合香師)

聖 書
出エジプト15章22-27節     
15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

わたしを求めよ
 聖書を読んでいる私たちは神の民がエジプトを脱出した後、40年の荒野の旅路があったことを知っています。しかし、当の彼らは葦の海を渡った後、40年もの長い旅路があることを知りません。出発前にそれを知らされていたら、彼らはどうしたでしょうか?アブラハムも故郷を出る時、行先も何年の旅になるのかも知らされませんでしたね。

 私たちの今年のドイツの旅は、冬の間にいろいろと下調べをして臨みました。昨年、何一つ調べずに息子に会いましたら、ひどく叱られたからです。私たちのいい加減さ、無防備さに彼を全く呆れさせてしまいました。ですから、今回はできる限りの準備をしました。また、去年息子からドイツの旅の秘訣も学習しました。そしてドイツの旅をスタートしました。皆さん、水は空港で購入しません。町に着いて、そしてまず駅の中のスーパーを探します。そこで水1.5リットルを購入します。空港の半額です。何故なら乾燥しているということもありますが、レストランでもカフェでもホテルでも水は有料だからです。日本はつくづく至れりつくせりのいい国ですね。
 さて、神の民の旅のスタートはどうだったでしょうか。12章39節「彼らはパン種を入れてないパン菓子を作った。というのは、彼らはエジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。」と、着のみ着のままと言う状況のスタートでした。今朝の箇所は、荒れ野の三日の道のりを進んだようです。男子60万人とその妻子とその他雑多のもの達が、荒れ野を旅することは、容易なことではありません。あの大震災で数万の市民が避難することでさえ現代に於いてすら大変な事でしたね。大飯原発が再稼働しましたが、人口6万の舞鶴市は依然避難計画が立っていないとのことですね。
旅をスタートさせて、神の民がやっとたどり着いたのがマラの地でした。そこに水があったのですが、それは苦くて飲めません。
ですから、今朝の箇所の24節の「私たちは何を飲んだらよいのですか」という不満はよく理解できます。こんな大変な旅となることが予想されるのに、神さまは何故十分な水や食料の確保もさせず、あわただしく出発させられたのでしょうか?
「私たちは何を飲んだらよいのですか」こう言いたくなるのは当然です。ここに自分自身の姿を見ます。
 
しかし、神さまはここで何故美味しい水ではなくて、苦い水を用意されたのでしょうか。葦の海でエジプト軍に勝利を収めた神さまを、民は称賛して歌い踊りました。15章の最初の箇所はそれを伝えています。ここで、美味しい水を用意されたなら、更に神さまの株はぐっと上がったと思いますね。しかし、私たちの信じる神さまは、そうなさらなかった。
ここは、正に私たちの信仰の基本を教えてくれます。聖書の神さまを信じることは、そんなご利益ではないと。
私たちも昨年、息子から外国の旅は日本旅行のように甘くないと教えられました。
 それでは、私たちの神さまはどうして甘い神さまではないのでしょうか?それは、ご自分の民が、自分に訴えて来るのを、実は待っておられるのです。「あなたが苦境に立たされた時、私に叫べ」と待っておられたのです。私たちが叫ぶとき「さあ、今こそ私の出番だ」とおっしゃって、喜んでご自分の力を現してくださいます。私たちの神さまはそういうお方です。

生ける水
 皆さん、創世記に於いて、神さまはアブラハム、イサク、ヤコブという特定の人物を通して救いの計画を進められました。次に出エジプトに於いて、神さまは救いの計画をご自分の民という対象に移されます。ご自分への信仰すなわち信頼をご自分の民の内に育てようと計画されたのです。
葦の海を出て三日の道のり、それはご自分の民がまだまだ歩き出して三日目のよちよち歩きの未熟な信仰を現しています。でも、神さまはこれから成人の信仰へと育てることを、楽しみにしておられたのです。
何だか、この時の神さまのお気持ちはよく解る気がします。以前の説教で、まだ足元も不確かな幼子が、公園で親に見守られていることを確認することによって安心して遊ぶことができるのと同様に、神さまに見守られていることの幸いを聞きました。幼子は親と自分の関係を「振り向く」という行為によって、回復され、安定して育って行くのです。私たちと神さまとの関係も同じです。私たちが不安になる時、苦境に立つとき、それは、神さまが置かれた「苦い水」です。その時に神さまに「振り向く」。その時にこそ神さまに最も近づくことができる時です。平穏無事の時は、なかなか切羽詰まった関係になりません。「苦い水」に出っくわすとき、その時こそ恵みの時です。神さまが自分の直ぐ目の前におられることに気づかされる時です。この経験の積み重ねによって、神さまは私たちの信仰を育てようとお考えです。

 神さまはモーセに一本の木を示され、それを苦い水に投げ入れると、水が甘くなり、飲むことが出来ました。この水によって民は息を吹き返したことでしょう。

 25節後半に「その所で彼を試みられた」とありますが、ここを、神さまはモーセを育まれたと受け取ることができるのではないでしょうか。
さらに26節後半で「わたしは主、あなたをいやす者である」とおっしゃって、神さまはご自分の民を12の水の泉と70本のなつめやしの木のあるオアシスへと導かれます。荒れ野でこれほどのオアシスのある場所というのは、なかなかないのではないでしょうか。

 「わたしは主、あなたをいやす者である」。このことは、病に限定されないことではないでしょうか。私たちの人生の闇の部分全てにおいて、わたしは癒し主である、との宣言と聞こえます。このお方と共にあるならば、そこは、12の水の泉と70本のなつめやしの木のあるオアシスなのです。平凡なあなたの毎日もこの方と共にあるならばオアシスです。苦境の中にあるあなたの毎日もこの方と共にあるならばそこはオアシスです。みなさん、このオアシスを過少評価していないでしょうか?
17番目の素粒子のヒッグス粒子の存在を50年前に仮説が発表され、それが実験によって証明されたと先週発表があり、世界中が沸きました。世界の始まりを一つ解明できたと科学者たちが称賛しました。コンピュウターがこれを数式にはじき出す作業では天文学的数字が報道されていました。無限大と言ってもいいものです。でも皆さん世界の始まりが解明されたら、この世界の闇がすべて癒されるのでしょうか?それはいったい何百年先のことでしょうか?聖書は今、私たちに人生のいやし主がおられると宣言します。そこは主にある憩いの場所だ、と宣言します。

何故そう言えるのでしょうか。神さまがモーセに一本の木をお与えになったように、私たちには(生ける水であるヨハネ4:10)イエスさまを下さったからです。私たちの苦しみの全てを経験してくださったイエスさまが、私たちと日々共に歩んでおられるからです。私たちがそれを意識していてもいなくても、イエスさまを信じているということに於いて、イエスさまは日々あなたの前に両側に後ろにいてくださいます。
中心聖句
わたしは主。あなたをいやす者である。出エジプト15章26節
説教要旨
出エジプトした神の民は直ぐにエジプト軍に追いつかれたが、神の力によって葦の海を渡り、難を逃れた。彼らは神を賛美した。しかし直ぐにハプニングに遭遇。荒れ野で見つけた水はマラ(苦)かった。叫びを上げる神の民。神の意図は?イエスさまはご自分が「生ける水」(ヨハネ4:10)と宣言された。人生を、また苦難の中を、生かし癒すのは主から与えられる「生ける水」による。神はモーセに一本の木を与えた。私たちには生ける水である主イエスさまが与えられている。

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。