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「 あなたを贖う 」 (末吉貞雄師)

聖 書
レビ記4章1-21節
4:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
4:2 「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、
4:3 もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。
4:4 その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。
4:5 油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。
4:6 その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。
4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。
4:8 その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、
4:9 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。
4:10 これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。
4:11 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、
4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。

全てを神に委ねよ
教会周辺でも新築の家があちらこちらで建てられ、他所から引っ越して来られる方がおられます。モーセが長であるテント村の真ん中に、神様のテントが完成して、神様が引っ越して来られました。これから神様とのお付き合いが始まります。まずは御挨拶に伺わなくてはなりません。お近づきのしるしに何を持って行ったら良いのでしょうか。

 私たちの間では、引越しして来られた方がどういうお方なのか、まずその情報を集めますね。お二人暮らしの高齢の方なのか、家族の多い若い夫婦なのか、お菓子にしても和風好みなのか、洋風好みなのか。レビ記は神様に関しての、その情報を提供している書です。神様がどういうお方なのか、私たちは旧約聖書からまずその情報を収集する必要があります。それによって、なぜ私たちの為にイエス様が人と成ってマリアより生まれピラトもとで十字架に磔にされなければならなかったのか、私達人間の真の姿と神様の御思いに目が開かれます。

神様はまず全焼のいけにえを求められました。そこに示されている神さまの御思いは「あなたの全てを受け入れたい」でした。だのに私たちの方は神様に対して一部分しかお委ねしていないんじゃないか、これで良いのだろうか。先週は祈りました。神様あなたに全てをお委ねする信仰をお与え下さい。
素であれ
 さて今日は次に神様が求められましたいけにえに注目しましょう。今月でレビ記を終えたいので、詳しくは祈り会でお話する事といたしまして、残りのいけにえをまとめてお話します。2章から7章までに大きく分けて三つのいけにえの事が記されています。

 その第一は2章の穀物(小麦)のささげものです。小麦粉で捧げたり、パンにして捧げたり、初穂を捧げたり色々あります。パンにして捧げる事が多かったでしょう。その場合11節パン種や蜂蜜を入れない様に指示されています。パン種も蜂蜜も小麦粉を発酵させます。この発酵は小麦粉を大きく膨らませます。神様はそれを禁止なさいました。外はカリカリ中はシットリフワフワ、と言うのが近頃の人気パンなんですが。神様はパンを食べるのではなくて小麦を焼いた煙、香りを受取られます。それで、小麦そのものに拘られるのです。添加物を入れて小麦を見栄えよく食感の良いものに変質させる必要は無いのです。聖書で特にパン種は真実の反対の偽りを象徴する言葉として使われます。

 昭和30年1955年に古い中国訳(漢訳)聖書の影響を受けた文語訳聖書が口語に改訳されました。口語訳聖書を長らく使っていた人は思い出して下さい。「穀物の捧げもの」は「素祭」と訳されています。素麺の素です。最近女性のお肌に関して、お化粧を落とした顔を「素っぴん」と言います。何の飾りもいらない応対を求める時「素でお願いします」と言います。

 神様は素祭を求められました。飾らないあるがままの、つまり偽りのない真実なあなたを神様は求められます。だから、イエス様は誰が一番偉いかと論じ合ったり、喧しくて手のかかる子どもをイエス様のもとから追い払おうとした弟子たちに繰り返し「幼子の様にならなくてはならない、幼子の様に神の国を受け入れなさい」と言って、神様が何を求めておられるのかを教えられました。先週ささげる動物は無傷のものでなければならない、とありました。これは口語訳では「全きもの」と訳されていました。ノアは全き人であった。神様はアブラハムと契約する時に「全きものであれ」と言われました(17章)。イスラエルは荒野の旅を終える頃モーセを通して神様から「主に対して全きものであれ」と言われました。無垢であれとも翻訳される言葉です。神様が無傷の動物、全きものを求められたのも、この幼子の様な純粋さをまごころを求められたからなのです。詩篇51篇17節「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心。」が今月礼拝の招きの言葉として選ばれているのは、神様がこの礼拝で、飾りのない偽りのない真実な、全く神に委ねきった心、その意味で無垢な、幼子の様な純粋さ、まごころを、求めておられるからなのです。アブラハムにイサク奉献を命じられたのはアブラハムが全き者であるかどうか試す為であったと思います。モリヤの山頂で全く神に委ねてイサク奉献するアブラハムを見て、彼との契約内容である子孫の祝福に太鼓判を押されました(22章)。
和解の絆
 第二は3章の和解のいけにえです。口語訳では酬恩祭と訳されていました。現在の中国語聖書は平和(平安)祭と変更されています。英語の聖書は「共食・連帯の捧げもの」と訳されています。全焼のいけにえと違う所は全部燃やして灰にしない事です。残った者をみんなで食べるのです。強調点は同じ和解の祭壇に関わる連帯・絆です。新約聖書331ページ第一コリント10章16節17節は聖餐式のパンを裂く前に読んでいる聖句です。その後19節で和解のいけにえの残りを食べる目的を同じ祭壇にあずかることとしています。そして、聖餐式の場合は21節同じ食卓に与る事としています。神様の求められるのは連帯・絆です。親子の絆、家族の絆、支援によって被災地の人との間に生まれる絆、と色々なことによって絆が生まれます。しかし神様が私たちに求められる絆は和解の絆です。他のものによる絆ではありません。律法を順守することでも、善行をつむことでも、聖人の高徳によってでもありません。要するに人間の側の努力によって結ばれる絆ではダメなんです。和解の絆でないとダメなんです。でないと何か問題が起こった時にすぐに千切れてしまいます。そんな絆では神様は満足なさいません。今、あなたはわたしとどんな絆を結んでいると認識していますか。それはわたしが求めている絆と違っていませんか。

 キリストが人と成って十字架でご自分の肉を和解のいけにえとして献げて下さったのは、神様が臨んでおられるこの和解の絆をあなたと結ぶためでした。351ページ第二コリント5章18節20節「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させて下さいました。神の和解を受け入れなさい。」
罪からの贖いの必要
 さて、全焼のいけにえ「あなたの全てを受け容れたい」、穀物のささげもの「飾りや偽りなしの素でいい、幼子の様なまごころを受け入れたい」、和解のいけにえ「何によっても千切れない和解による絆を結びたい」。この神様になにもかもお任せしたいですね。しかし、それに答えられない現実が私たちにはあります。
 捕囚という体験がレビ記にそういう視点を与えたようです。使徒パウロがローマ書7章14節「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」と言っているように、祭司レビたちも神様との生活お付き合いを始めるのに、どうしても罪からの解放、贖いが無くてならない事であると、示されました。人間の宗教的な功績ではどうにもなりません。罪から贖われなければ救いがない人間の現実を忘れてはならないのです。

さて、レビが伝える規定に従うならどんな罪からでも贖うことができるのでしょうか。実はそうではありません。4章から問題にされている罪は、過って犯された罪です。2節、14節、22-23節、27-28節に「過って罪を犯し」、後で「咎を覚える(犯した罪に気付いた)とき」とあります。258ページ民数記15章22章以下もそのことについて書いています。そこを読んで行くと、この4章の贖いの献げ物のことが言われた後で30節「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒瀆する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主の言葉を侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」とあります。故意に罪を犯す者は「犯した罪を知らされても」悔い改めない者である。祭司はそういう者の罪を贖うことは出来ないのであった。出エジプト記21章、レビ記18章、20章、申命記13章、22:22以下、27章の呪いの掟などを読むと、十戒の違反は死を意味していたことが分ります。売られて罪の下にある人間の贖いは、そう簡単なものでは無いと言う事です。

私たちが聞いているイエス・キリストによる贖いはこの点どうなんでしょうか。391ページコロサイ2章13節「神は、わたしたちのすべての(一切の)罪を赦し、」420ページテトス2章14節「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをすべての不法から贖い出し」23ページマタイ12章31節「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし御霊に逆らう冒瀆は赦されません。」434ページヘブル9章12節「キリストは永遠の贖いを成し遂げられたのです」。これらのイエス・キリストによる罪の贖いと赦しの恵みがどんなに完成されたものであるかがわかります、私たちは改めて高価な恵みをいただいていることを肝に銘じる必要があります。

さて、私たちはレビ記が不完全な贖いしか知らないということでバカには出来ません。この書のごとく私たちは罪に対して敏感だろうか。2節と違って「一つぐらい破っても」という生温さはないだろうか。3-12節は油注がれた祭司の場合、13-21節は共同体全体の場合、22-26節は共同体の代表者の場合、27-35節は一般の人の場合、と分けられています。罪の贖いは身分や立場の違いに関係ありません。民数記3章で神は初子をご自分のものとされました。しかし、実際はその身代わりをレビ族でもって行う事とされました。しかし、それではレビ族の人数が足りませんでした。その時神は足らない分を贖い金で身代金としました。その金額も身分や立場の違う家の初子を全て一律同額の5シェケルとなさいました。
罪の告白
共通することは、違反の罪に気付いて、その罪の贖いのために献げ物をすることです。この献げ物を携えて幕屋へ向かうことは公に自分の罪を認め告白することになります。そして、主の御前に立ちます。最初の二つは臨在の幕屋の前に立ちます。後の二つは焼き尽くす献げ物の前に立ちます。これは主に罪を告白することです。これが第一に重要だと言われているのです。罪一般じゃないのです。具体的にどの罪を犯したのかが明らかにされます。一般の罪ということで、ぼやかしてしまうと贖えないのです。カトリック教会が守っている告悔の伝統はこのことを受け継いでいます。罪は露にされることから逃れようとする性質があります。
罪を取り除く
第二に献げ物の動物の頭に当事者が手を置きます。この行為は焼き尽くす献げ物の所でも出てまいりました。ここではそのはっきりさせた罪をこの動物に代わって負わせるのです。そして、屠ります。血を臨在の幕屋の垂れ幕の前、すなわち主の御前で七度振り捲きます。ある人はこれは悔い改めの涙を象徴していると言われます。祭壇の四隅の角に塗り、残りは祭壇の基に流す。「血を流すことなしには罪のゆるしはありえないのです。」とヘブル9章22節にあります。これらの行為は赦しを求める切なる思いが込められていますか。そして、脂肪が燃やされて宥めの香りが献げられます。この辺は和解の献げ物と同じです。神との交わりの回復を願うことです。さて、問題は動物が代わって負った罪です。この罪がどうなるかです。この罪を民の中から取り除かなければならないのです。

その方法は、宿営の外の焼却場で焼き捨てることです。宿営の外というのがポイントです。幕屋が中央にあり、その周りに宿営があります。この形は後に神殿と城壁で囲まれた部分という形になりました。その空間から外へ動物を追い出して、そこで焼き捨てるのです。これで罪は完全に民の中からぬぐわれたと言うことになります。罪が神との関係を遮断します。それで贖い、罪が取り除か、罪が赦されとも言い換えられています。それによって神様は関係を結びたいのです。旧約ではこの贖いは動物によって毎日なされたわけですが、不完全でした。

さて私たちの場合はどうなるのでしょうか。443ページヘブル13章12節「ですから、イエスも、御自分の血によって民を聖なる者とするために、門の外で苦しいを受けられました。」この4章を読んでイエスさまがなぜ「捨てられる」と言われたのか。そして、なぜ城壁の外にあったゴルゴダで十字架につけられたのかが分るのではないでしょうか。「ただ一度の永遠の贖いをキリストは十字架で成し遂げられた(へブル9章12節)」のでありました。
聖衣を午後見ます。主人公はキリストを十字架に磔にする任務を果たしたローマ兵です。88ページマルコ10章45節「多くの人の贖い」すなわち、このローマ兵のための贖いの代価として、キリストはいのちを与えられました。彼が命を奪ったのではなくて、キリストが彼のために命を与えられました。「私はあなたを贖う、完全に贖い神のもの、神の子、私の支配の中にある者とします。神のものとします」これはキリストの全ての人に対する約束です。

説教要旨
 神様とのお付き合いを始めるのに、神様が何を求めておられるのか。その情報を入手する必要がある。全焼のいけにえ「あなたの全てを受け容れたい」、穀物のささげもの「飾りや偽りなしの素でいい、幼子の様なまごころを受け入れたい」、和解のいけにえ「何によっても千切れない和解による絆を結びたい」。そして、最も重要なのは罪のいけにえ「罪を取り除いて贖い我が子の様に共に暮らしたい」。しかし、贖いが出来ないと受け容れ絆を結ぶ事も出来ない。ご自分を完全な贖いの供え物として捧げて下さったキリストは「私があなたを完全に贖う」と力強くあなたに宣言される。キリストのご支配に入れて頂こう。


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