INDEX    RSS    ADMIN

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「 我がものは無し 」 (末吉貞雄師)

聖 書
レビ27章30節
27:30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。

応答が求められている
 イエス・キリストに結ばれるなら、「あなたはわたしのものである。誰があなたのことを何といようが、あなたはわたしのものである。何が起こりましょうとも、あなたはわたしのものせある。」」との神様の宣言(人生の救命胴衣)を受け、安心して人生の旅ができます。タイタニックと言う映画で救命用具、あの時は救命ボートが必要でした、しかし足りませんでした。沢山の人が傾く船の甲板の上を海の中へ滑り落ちて行きました。そんなシーンがあります。その中に柱にしがみついて数人の人を滑り落ちない様に手を結ぶグループがいました。その柱にしがみついているのは黒い牧師服を来た人でした。彼らも遂には海に滑り落ちて行くのですが、牧師の口から聖書の言葉が叫ばれていました。「主は我が牧者。・・・たとえ死の陰を歩む時も恐れることはない・・・」。今から思うともしかしたら、いやきっと脚本家は、あの究極の事態の中で、もう一つの救命道具がある事を伝えたかったんじゃないだろうか。そう言えば甲板にひたすら新聖歌510番「主よ御許に」を演奏するバイオリニストとチェロストがいました。天から「帰って来い」と言うお迎えの声は、晩御飯の用意が出来た時に来越えて来る親の声の様なもの。悲しむべき声ではなくて懐かしい楽しみの声、晩御飯は何だろう。近づくにつれていい匂いがします。そんな声なのです。さあ御許に近づこう。そんな曲が510番です。

 キリストは結ばれた人の事を羊に例えた時に「わたしの羊」
と呼ばれました。そして、「わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る様なことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」ヨハネ10章27節以下199ページ。
 
 キリストと結ばれて人生の救命胴衣を得たい、そう願う者は洗礼を受けてキリストと結ばれて下さい。洗礼志願者の受付をしています。牧師まで申し出て下さい。

 既に洗礼を受けている方は、キリストにしっかりと繋がっているかを確認して下さい。キリストはあなたを神のものとする為に、あらゆる支配から買い取る為に、まだ神に敵対して罪人であろうとする、そんなあなたなのに、御自分の命と言う代価を十字架で払われました。ここにはあなたに対する神の愛が示されています。この愛に答え続けて下さい。それがキリストに繫がる事です。そして、伝えて下さい。この救命胴衣の事を。私達はその意味で人生の旅の客室乗務員です。

 379ページ、エペソ5章8-10節「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。そのためには、主に喜ばれる事が何であるかを見分けなさい。」

 レビ記は、光の子ども、すなわち神様のものとなった者に、主が喜ばれることが何であるかを教えている書です。今日の27章は最終章ですから、その締めくくりです。一言でいうと「応答」です。神のものとされた事に対する応答です。

明け渡して神のものになる
ズバリ神のものになる事です。今月の歌として選んだ391番「皆献げまつり」の原歌詞はAll to Jesus I surrenderと言う歌い出しになっています。Surrenderは献金の「献げる」と翻訳されていますが、ちょっとニュアンスが違います。このsurrenderは降伏した後、これから自分の支配者になる相。手に城を明け渡す、と言う意味の言葉です。私達がする献金にはこの意味も含まれています

神様が宣言されます「あなたはわたしのものだ」。その応答としての「わたしはあなたのものです」。しかもそこにAllが付いています。神様からの宣言を受けて、神様の子どもにクリスチャンにして頂いたのですが、自分と言う城の全ての部屋を明け渡していないのではなかろうか。まだ神様に明け渡していない部屋が残ってませんか。残っているなら、その部屋にも神様を案内して入って頂きましょう。見て頂きましょう。そして、神様の指示に従いましょう。そういう歌が391番です。

全てを献げ、我がものは無し
 27章の特別な誓願とは、神様に全てを捧げる事です。かつて神様はアブラハムの息子イサクの全てを捧げる事を求められました。サムソンやサムエルの親は不妊でしたが与えられた子を捧げる誓願をして捧げました。士師エフタは誓願を立てて言いました士師11章31節「私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。わたしはその者を全焼のいけにえとしてささげます。」結果、彼は自分の娘を捧げる事となりました。これらの人々は証しています。神への応答、それは全てを捧げて「我がものは無し」とする事です。
 
来週から民数記に入りますが、神様の計画は、エジプトから贖い出した民をこの世に対する公の証し人として整える事でした。それで民数記では人口調査とグループ分けとその配置、役割分担を決めて、一つの共同体として形を整えられます。それから、シナイを旅立ちました。全員が献身して祭司になれるのではありません。命が捧げられたのは士師エフタの娘だけです。基本は我がものは無しです。ささげられた身体を神は用いられるのです。

高慢は信仰の最大の敵
 では、どう言うかたちで応答すれば良いのでしょうか。神様は締めくくりとしてその支持をなさいました。それが27章です。特別な誓願とは全身を捧げる事です。しかし、神様はその応答の心だけ受けよう、全身の代わりに、お金、家畜、家屋、畑を捧げることにしなさい、と指示なさいました。その中でも神様は、すべては神のものである。あなたのものは無い事を忘れて高慢に成ってはならない、その事も指示なさいました。それが30節です。十分の一はわたしに返しなさい。本当は全部私のものなのだが、地からとれるものの十分の一と、26節の家畜の初子、この二つはあなたがたの自由にはならない私のものとしなさい。それによって「我がものは無い」と言う事を忘れない様にしなさい。

捧げものは、十分の一以外からしたんでしょうね。高慢な世であった預言者マラキの時代にはこの十分の一を神様にお返しする事が忘れられていました。

イエス様が来られた時も同じでした。新約聖書152ページルカ18章9節で、イエス様は決まり通り受ける者の十分の一を自分はささげている、と自慢して他人を見下す人ではなく、謙った取税人を称賛されました。

その後で金持ちにも22節、持ち物全部を手放すことを命じられました。27節、人には自分を救う力はありません。神には何でもできる力があるのですから。神に全てを明け渡せばよいのです。すなわち、神に働いて頂くのです。

160ページ21章、大勢の参拝者でごった返していた神殿で、イエス様が生活費全部を捧げて、全てを神様に返した貧しい一人のやもめを見逃さなかったのは、「我がものは無し」と言う事がいかに大切かを表しています。

マタイ25章14節の「僕たちを呼んで自分の財産を預けた。」は私達の持っているものは全て神様からの預かりものである事を伝えています。

1コリント4章7節「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」ただで頂いた。

バプテスマのヨハネが、キリスト出現の折りに自身の衰退を目の当たりにしたが、彼は信仰に立って言った3章27節「人は、天から与えられるのでなければ、何も受ける事は出来ません」。

ヨブが全ての財産と子ども全員を失った時新王に立って言いました、ヨブ1章21節「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

皆さん、
 私達は神さまから人生の救命胴衣を頂いたものです。「あなたはわたしのものである」その応答「わたしはあなたのものです」として、私達は何をしているでしょうか。献金とは、経済の部屋も神様に明け渡すことですね。十分の一の献金は神様のものをお返しする事から始まりました。損得に関係なく、「我がものは無し」わたしはあなたのものです、それを態度で表す献金をして、神様の愛・恵みに応答し続けましょう。

 今日で終わるレビ記全体は礼拝の基本を示します。「あなたはわたしのものである」という神様からの福音に対する私達の応答「わたしはあなたのものです」。この二つがこの礼拝で響くのです。信仰生活とはこの二つが行き来する、神様とあなたのキャッチボールの連続です。

説経要旨
神のものとされ人生の救命胴衣を得た者は、「わたしはあなたのものです」と応答し続けよう。あなたと言う城が神のものなら全ての部屋を神に明け渡しましょう。まだそうしていない部屋はないだろうか。レビ記は最終章でこの応答の事に特に経済の事に触れる。信仰生活にとって非常に重要だからである。基本は「我がものは無し」である。献金において、損得に左右されず、神のものをお返しして「これもあなたのものです」とささげて、応答し続けよう。

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。