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「 喜びの礼拝 」 (末吉貞雄師)

聖 書
レビ記9章22-24節
9:22 それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。
9:23 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、
9:24 主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。

喜びの原点
 人生を長くしていると色々な喜びを経験します。ロンドンオリンピックでメダルを取ったのは私ではないんですが、喜びのお裾分けを頂きました。練習の成果、努力の結果が出る時の喜びですね。この喜びが多いですね。しかし、なかなか結果が出て来ない事も多いですね。年を取るごとに若い時の様に結果が出なくなります。身体が、頭が、気持ちが・・・思う様に行かないので、そう言う喜びは少なくなって参ります。

 1114ページ伝道者の書12章1節『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。・・・「何の喜びもない」と言う年月が近付く前に。』

 何の喜びもない。そんな時、あなたの命を創造して、それをあなたにお与えに成った、あなたの誕生の時を思い出しなさい。そこに人間の喜びの原点、生きる原点がある、と言う事なんです。

迎え受け容れられる
 思い出せと言われても思い出せませんね。生まれた時の事は。子どもの頃私はタンスの引き出しを開けるのが好きと言うちょっと変な子でした。へそくりなんかしたらすぐ私に見つかります。特に上に方にある小さな引出しには、細々した宝物が色々入っています。そこからよく臍の緒と母子手帳を出して来ては母に聞くんです。生まれた時の事を。そのタンスが置いてある部屋で生まれました。取り上げた産婆さんの家も教えてもらいました。確か赤い布が玄関の軒先に垂らしてありました。ひと月目のお宮参りの写真も引っ張り出したりして、自分のルーツを探ったものです。

 原点は、私の誕生を迎えられた、受け容れられた、と言うことです。最初に私を抱いたのは産婆さん、それを受取って布で覆ってお湯で洗ったのはお婆ちゃん、そのわたしの手をお母ちゃんが握って、それから一階の工場から駆け付けたお父ちゃん、叔父さんたち、先に生まれた姉と二人の兄、皆が集まって皆に見守られた。生まれた日はこんな感じだったのではないでしょうか。

 迎えられる。受け容れられる。これが人間の喜びの原点、生きる原点です。覚えていないけど、それがちゃんと私の奥深くに刻まれています。

 神様は、エジプトで過酷な強制労働を受けていた奴隷を解放し、彼らを神の家族として新たに生まれさせる為に、色々な準備をモーセを用いて進められました。今日読みましたレビ記9章22節23節はその準備が全て整った時でした。

 丁度、新しい命が生まれるお産の時と似ています。神の家族が生まれるその時に何が起こったのか、それを今日の聖書は伝えています。

 主の栄光が現れ、これから生まれる神の家族が用意したささげもの、いけにえ、彼らがその頭に手を置いて彼らの身代わりになったいけにえを、神様のもとから出て来た火が全て焼き尽くし、煙に成って香に成って全部天に迎えられ受け容れられました。新たに生まれた神の家族を、先程私の誕生のお話をしましたのと同じく、神様が歓迎し受容なさったという感動の場面です。

喜びの原点
 民はこれを見て、叫び、ひれ伏しました。この叫びは喜びの叫びです。こんな叫びは今までしたことがありませんでした。これは特別の叫び(口語訳は『喜び呼ばわった』と翻訳しました)で、神の家族として生きて行く彼らの原点となりました。

喜びの礼拝
この叫びと同時にひれ伏しました。ひれ伏すとは礼拝です。ですから、礼拝って神に歓迎され受容される時なんですね。だから、礼拝は喜びの礼拝です。

イエス様は十字架に架かってあなたの身代わりの完全な捧げものとなって下さいました。私達は教会でこの福音を繰り返し聞きます。耳にタコが出来るわけがないのですが、それぐらい聞きます。その内容を越えて、その心を聞きます。その心とは、あなたを神に歓迎され受容される者とするためです。「こんな人は神様に歓迎されない。受け入れてもらえるはずがない」自分の事を横に置いてそんな事をつぶやいていた人を見てイエス様が話された放蕩息子の話を思い出して下さい。

父である神は、我に返って、悔い改めて神の下に帰って来た放蕩息子(礼拝者)に、走り寄り、抱き、口づけし、一番良い着物を着せ、大切な人のしるしである指輪をはめ、靴を履かせて、祝宴を開いて、歓迎と受容を精一杯表しました。

このイエス様を信じて、あなたも神の下に行きましょう。これが礼拝です。そして神の家族に成って下さい。既に神の家族に成っている人も、礼拝で神の家族である事を確かめて下さい。私が何回もタンスの引き出しを開けて自分のルーツを母に聞いたように。「あなたは私の家族だよ。嘘じゃない。ほんとだよ」これを聞くんです。この礼拝堂で何回も何回も聞きに来るんです。オリンピックで銅メダルを取ったバレーボールの試合、見ましたねえ。試合中何回もタイムをとります。そして、声を掛けあいます。ファイト、ドンマイ、落ち着いて、耳にタコが出来るぐらいに声を掛けあいます。信仰の戦いも同じです。何回も何回もこの礼拝に集まって神の言葉を聞くんです「あなたは私の家族だよ。嘘じゃない。ホントだよ。」

 私は生まれた時、何の結果も出せない者でした。しかし、そんなことは大した問題ではなく、生まれた時、家族に迎えられ、受容され、喜びで満たされ平安でいた事が大切なんです。人生長くやっているとこの喜びの原点を忘れてしまいます。でも、心の奥に刻まれているんです。キリストを十字架に追いやったのに、神はキリストを復活させ弟子たちの前で歓迎と受け容れを示されました。この福音を聞く時、心に刻まれたあの初めの喜びが増幅して来ます。

 礼拝って良いですね。神の家族になるって良いですねえ。そこには圧倒的な勝利と、なにものも引き離す事の出来ない安心があります。302ページローマ8章37-38節を読んでみましょう。礼拝は喜びの礼拝です。

 さて、子どもは親に育てられます。神の家族は神様に育ててもらわないといけません。心配いりません。神様はちゃんと計画を立てて育てて下さる最高の教育者でもあります。オリンピックを見ていましても野球を見ていましてもサッカーを見ていましても、選手は監督に信頼を置き従いますね。455ページ1ペテロ2章25節は、神様の事を魂の監督と言っています。来週は神様が神の家族をどうお育てになるのか、お話します。

 主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。これは喜びの叫びでした。喜びの礼拝でした。

説教要旨
何の喜びもない。そんな時、神様があなたの命を創造して、それをあなたにお与えに成った、あなたの赤ん坊の時を思い出そう。そこに人間の喜びの原点、生きる原点がある。歓迎される受容される所に喜びの原点がある。エジプトの奴隷だったが時至って神の家族として生まれる時、神はささげものを自らの火で焼き尽くすことによって、歓迎と受容を示された。キリストは十字架であなたの身代わりの捧げものと成った時、神はキリストに火ではなくて力を注ぎ復活させて神の家族として歓迎と受容を示された。それを体験する教会の礼拝は喜びの礼拝である。

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