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「祈りの家」 (末吉貞雄師)

聖 書
ルカ19章45節-20章8節
19:45 宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
19:46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、
19:48 どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。
20:1 イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、
20:2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
20:3 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
20:5 すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
20:6 しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」
20:7 そこで、「どこからか知りません。」と答えた。
20:8 するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。

神からの伝言を聞く
 「神様、こんな私に何の用がありましょう。」そう言って希望を持てない自分というものを私達それぞれ、大なり小なり持っていますが、ここ、イエス・キリストの教会、この聖堂に集まったなら「主が御入用なのです。主の用なり」と声をかけて下さいます。
 運ではなくて、あなたには神の御計画があります。摂理とも言います。昔ヨブと言う人も自分で自分の人生を色々と思案し嘆き落胆いたしておりました。
 ヨブ38章899ページ、「神様どうなっているですか。何とかして下さいよ」と人生の嵐の中で叫ぶヨブに神は答えられました。「お前は何者だ。知識もなく、言い分を述べて、神の摂理を暗くするとは。・・・」、ヨブは神の言葉を聞いてこう答えています42章「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」
 主があなたに対して御入用と言われます。「主の用なり」希望を持って生きて行きなさい。これは天からのあなたへの伝言です。 天からの伝言を聞くこの聖堂、それを祈りの家と言います。祈りの家は天からの伝言を聞くことから始まります。牧師が語るのですが、聖書に記されている事なのですが、それが天からの伝言と信じて聞く、ここから祈りの家は始まります。

聞いて行う
 神殿に入られてイエス様は46節で「わたしの家は祈りの家でなくてはならない、と書いてある」とおっしゃったのは既に預言者イザヤが記していた事でした56章1-8節1218ページの事です。そこを読むと、御旨、神様の伝言を聞いてそれを行う者が神殿に帰って来て祈る、それが祈りの家である事を強調しています。天からの伝言として聞くからそれを行うのですね。しかし、彼らは天からとは信じませんでした。
 イエス様が神殿に来てみたら祈りの家ではなくて強盗の巣になっていました。これも預言者が記していた事でした。エレミヤ7章1-11節1253ページ。そこでも行いとわざとを正して祈りの家に来る様に命じています。彼らも天からとは信じなかったのです。
 祈りの家に来て、まず神様からの伝言を天からの伝言と聞く、これが祈りの家の基本です。天からと信じる者は行います。そう言う人をイエス様は岩の上に土台を据える人と言われました(ルカ6章48節121ページ)。

聞いて、行って、祈る信仰生活
 20章1節、イエス様は神殿の境内で教えるだけではなくて、福音を告げ知らせておられました。天からと信じて聞き、行う。行う、それは結果出来たとは言っていません。結果ではなくてまず行動すると言う事です。
 伝言を聞いて、生活の場で行動に移す(生きる)、そしてまた神殿に帰って来る、その時の祈りは二つ考えられます。聞いて行って結果出来なかった人の祈り。聞いて行って結果出来た人の祈り。しかし、イエス様は「祈りは一つだ」とおっしゃいます。ルカ18章10-14節152ページです。その時イエス様は、聞いて行って結
果出来た人の祈で、人間の自惚れをたとえられました。神殿に祈りに来た人で義とされ高められて帰って行った人は、聞いて行ったが出来なかった人でした。

 その人に福音を宣べ伝える、これがイエス様が作りたい祈りの家です。福音すなわち天からの伝言を聞いてまた行う、これは行うと言うよりも希望を持って生きると言い換えられますね。そしてまた帰って来て祈るのです。
 ローマ3章10節「義人はいない、一人もいない」24節「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」そう言う信仰生活を祈りの家を中心にして行って欲しい、これがイエス様の教えです。しかし、祭司長、律法学者、民の指導者、長老たちはこの教えに耳を傾けませんでした。その理由は、イエス様が天から来られたと信じないからでした。

天からか人からか
 神殿の商売人を追い出す事は(マルコは詳しく、両替人の台や鳩を売る者達の腰掛を倒し、宮を通り抜けて器具を運ぶことを誰にもお許しに成らなかったと記しています)、彼らにとって困る事でした。神殿に人を集め盛んにする事、人にとって便利な事が彼らにとって益でした。それが主になっていました。
 義人は一人もいないと言う教えは、自分たちの正しさによってその地位を固めていた彼らにとって不利益な事でした。それで彼らが言い出したことは20章2節「何の権威によって」という質問でした。
 イエス様が天に帰った後、神殿でペテロとヨハネが伝道していた時もこの質問を受けました。これは質問と言うよりも、そんな事をする資格はお前たちにはない、という主張でしょう。彼らは自分たちにこそ権威がある、と言いたいのです。誰の権威によっているのか。この神殿を支配する祭司長も律法学者も長老も、そんな事をする権威を与えていない。ローマ皇帝の権威によってなら別だが、そんな事はありえない。さっさとこの宮から出て行きやがれ!これが彼らの言い分でした。

 ヨハネが洗礼を授けた事においても、彼らの頭の中には「天から」「神から」と言う考えはありませんでした。7章29-30節123ページは彼らが神からのものを拒んだと記しています。それで、イエス様はこの質問を反対にされました。
 天からか人からか。彼らにとって大切な事は何か、それがこの質問で明らかになりました。彼らは自分の立場が第一だったのです。ヨハネは言いました。ヨハネ3章27節178ページ「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることは出来ません。」

 祈りの家は、「天から」と言う事が第一とされる所です。教会と私達の生活の場は延長線上にあります。ややもすると人からの事が第一に成ってしまう危険があります。人からの事ばかりの日常の中で、天からの事に関わる、これが信仰生活です。
 皆さん、ここは神の教会、イエス・キリストの教会、祈りの家です。それは天からと言う事が第一になる所です。人からではありません、天からです。だから、ここには救いがあります。祈りの家であるここに来て、天からのことに目を開かせて頂きます。御言葉の力を受けて「ああ、天からだ」。城陽教会の誕生物語を聞いてみなさん一人ひとりの救いの証しを聞いて「ああ、天から来ている」。末吉牧師がここに遣わされて来た。「ああ、天からだ」。お茶を飲みながら話している中で「ああ、天からだ」。・・・これが祈りの家で起こります。ここで信仰が育ちます。

説教要旨
 皆さん、ここは神の教会、イエス・キリストの教会、祈りの家です。それは天からと言う事が第一になる所です。人からではありません、天からです。だから、ここには救いがあります。祈りの家である教会に来て、天からのことに目を開かせて頂きます。これは私達の信仰生活に無くてなりません。
 

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