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「喜びの食卓」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカの福音書22章1-34節
22:1 さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。
22:2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。
22:3 さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。
22:4 ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。
22:5 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。
22:6 ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。
22:7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。
22:8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」
22:9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」
22:10 イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。
22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。
22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」
22:13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。
22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
22:21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
22:22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」
22:23 そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。
22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

今朝の説教題「喜びの食卓」とは、まさしく主イエスと弟子たちとの最後の晩餐です。

これまで主は、五千人の人達との食事や、罪人と食事をされました。マルタとマリヤの家やザアカイの家でも食事をされました。その食卓で、神さまのこと、天国のこと、聖書を説き明かし、そしてご自分を証され、ローマの属国という重たい空気の中で希望を持てない人々に希望を与えられました。イエスさまが、社会の中心にいる人々ではなく、中心から離れたところにいる人々と食事をされる姿は、小さい人、弱い人、虐げられている人、無抵抗の人と連帯感を持っておられたことが分かります。
そんなイエスさまのことをユダヤ社会の中心にいるパリサイ人たちや律法学者たちは、「罪びとを迎えて一緒に食事までしている」と批判しました。社会の闇は批判に留まらず、殺意さえ起こさせました。それ程、イエスさまの行動は闇に光を当てる、新しい行動だったのです。ヨハネの福音書が冒頭で証していますね。1章11節「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。しかし、イエスさまは、どんな人でも自分の罪を深く悔い改める人には神さまの愛が注がれることを、どんな人とでも食事をなさるという行動を通して、身をもって示されました。食事が、主イエスとの関係を常に深めたということはまちがいありません。

 時も迫り、弟子たちとの最後の食事の日を迎えました。その日はユダヤの重要な祭りの日、過越の祭りです。神さまは、神の子イエスの最後の食事をこの時と定められます。この時が、主が苦しみを受けられるに最もふさわしい時だからです。
参考として、(主の)苦しむはギリシャ語でパスコー(動詞)。過越際を表す語はパスカと大変よく似ています。(注解書より)
 
何故ふさわしい時なのかという理由は、過越の祭りにあります。
昔々イスラエルの民がエジプトでの苦しい奴隷の生活から解放されましたね。そのことを忘れないために、この祭りを神さまは定められました。それが、過越の祭りです。(出エジプト13:3-10参照)
1節の「種なしパンの祝い」というのは、脱出の時にパン種を入れて焼いている暇はないので、種を入れない、発酵させないパンを焼き急いで出発しました。それで、この祭りは二つの呼び方があります。その時のことをちょっと思い出しましょう。
神さまはイスラエルを救い出すために、どんなことをなさったでしょうか。エジプトの王パロがあまりに頑なで、イスラエルを出発させないので、10回も災いを送られました。その10回目に、エジプト中の赤ん坊のいのちが犠牲になりました。パロ王の赤ちゃんも例外にはならず、家畜の赤ん坊まで犠牲になりました。その時に、イスラエルの赤ん坊を守るために、一つの事が命じられます。イスラエル人の家の二本の柱と鴨井に「子羊の血」を塗ることです。それによって、エジプト人とイスラエル人を区別できるようにされました。(出エジプト12章13節)子羊の血によって、イスラエルの家は過ぎこされ、守られました。そして、神さまは十戒を与え、イスラエルの民は神の民となることを約束します。これが、神さまとの旧い契約です。しかし、ご存じのように、この約束は弱さを持つ民故に、何度も反故にされ続けました。

 今朝、主は神の救いの奥義を明かされます。
十字架を前にした主にとって、弟子たちとの最後の食事は喜びの食事ではありません。彼らをこの上なく愛しておられるのに、最後となるこの食事が、喜びの食事であるはずはありません。神さまの決死の覚悟(奥義)を明かす食事である故に「喜びの食卓」なのです。主の十字架と復活の後、神の国が来るその日まで続けられる食事であるゆえに、喜びの食卓なのです。だから15節でこう言われます。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」。 
1コリント5章7節にこうあります。「新しい粉のかたまりでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の子羊キリストが、すでに屠られたからです。」

 キリストが私たちを罪の奴隷から解放し、神の子とするために、十字架で血を流されました。すなわち、キリストは過越の子羊のようになってくださったのです。私たちを神の子とする新しい命を与えるために、ご自分のいのちを犠牲にしてくださった。イスラエルのいのちが救われるためには、エジプトの多くのいのちが犠牲となりました。しかし、その命以上に重い、神の子のいのちが犠牲にされたのです。
主イエスは宣言されます。「旧い契約はわたしによって完成され、新しい契約があなたがたに与えられる」20節の「わたしの血による新しい契約」です。
これが、神の救いの奥義です。

16節、18節で「神の国において」「神の国が来るとき」と、神の国はまことにある故に、わたしの十字架の意味を悟れと言われます。
パンを取り、感謝を捧げてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」
この主の恵みを深く覚え、私たちは毎週主の元に集まりましょう。
主の聖餐が行われる第一主日は、特に大切にいたしましょう。

説教要旨
 15節「わたしは、・・この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」主イエスに於いて、弟子たちとの最後の食事は特別な意味を持っていた。主の苦しみ(十字架)と復活は、神の救いの契約が完成する時であるからだ。過越の食事、それは奴隷からの解放(救い)を感謝し覚える食事。その解放は子羊の血によった。その子羊に今主は成られる。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」。私たちは、罪からの救い(神の子とされる)に与っている恵み(神)を、どこまで知っているのか?

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