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「人の知恵によらない」 (末吉貞雄師)

2015年4月26日

聖書 第一コリント1章18節-2章5節
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。


原点に立ち返る     「えーっと、何しに来たんやったかなぁー」と思い出せない時は、まず元に戻る事ですね。そしたら思い出しますね。何事も原点に返るというのは大切です。人間が集まる所にはトラブルが起ります。教会も例外ではありません。そんな時には原点に立ち返りましょう。

恵みと憐れみで始まった
 それは十字架ですね。18節の「十字架の言葉」、21節の「宣教の言葉」、23節の「十字架につけられたキリスト」の事を聞いたのが原点ですね。先週の説教でも聞きましたね。『①あなたの為にキリストが十字架にかかって命を献げられました。②同時に、あなたの隣にいる人の為にもキリストは十字架にかかって命を献げられました』。この言葉『宣言』が原点ですね。これは愛の宣言ですね。21節、この宣言を信じる者が救われてクリスチャンとしてスタートします。要するに神様からのプロポーズに答えて始まるのです。

 ところでこの①と②はセットになっています。①はあなたと神様との縦の関係ですね。教会に集う私たちのお互いの横の関係には色々ありますけれども、無くてならないのは②から生まれる横の関係ですね。人間の集団には必ず強い人と弱い人がいます。教会も同じです。コリント教会で強い人が弱い人を躓かせるというトラブルが起こっていました。その時使徒パウロはこの②の原点に立ち返る様328ぺージ8章11節で指示しています。「その弱い人は、あなたの知識によって、滅びるのです。キリストはその兄弟の為にも死んで下さったのです」。

 この原点は20節の道理をわきまえた知者や、知識豊富な学者や、納得のゆくまで妥協しない議論家にとっては愚かなものでした。私は知者でも学者でも議論家でもありませんでしたが、私も道理や知識や納得を求めていました。しかし、信じるものとされました。発端はプレゼントされた聖書の裏表紙に姉が書いた言葉でした。「誕生祝。あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に。伝道の書12章1節。昭和50年3月21日。」
 ここにはしるし(証拠)はありません。世の知恵では進化論があり遺伝子や生殖によって今の自分があると考えますから、造り主の存在など受け入れられません。しかし、この聖書の言葉には力があって私を教会へ導き、色々な聖書の言葉と接し、そして、キリストの十字架のことば宣言を聞き、それを信じる者にされました。26節聖書はそれを「召し」と言う特別の言葉を使っています。28節「あえて選ばれた」となっています。みなさん、神は私たちをなぜ選ばれたのでしょうか。資格があるとか、優秀だからとか、必要だからでもありません。それで新聖歌357番は「何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど」と歌います。答えは神が召されたという所にあります。神から始まったと言う事です。決して自分から始まったのではありません。26・27節、世の知者や世の権力者や身分の高い者とは、自分で始める人の事ですね。教会にその様な人が多くなく、世の愚かな者や世の弱い者が多いのは、神が選ばれたからなのです。

 召されるとは指名を受けることです。選ばれた理由はただ一つ神の御指名なのです。私たちお互い指名される者でないのに指名されたのです。神の恵みと憐れみによってクリスチャンライフは始まりました。これが戻るべき原点ですね。ここに戻る時に人は自分を誇れませんね。高慢は挫かれますね。ローマ5章8節の「しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んで下さった」と言う事、特に自分が罪人である事に目が開かれます。

真実な方が始められた
  人生に於いて自分で、あるいは強いられて、あるいは偶然にでしょうか、色々な事を私たちは始めるわけですが、できるなら一からやり直したいと思いますね。それで人生は後悔の連続と言われます。しかし、神さまが始められる事はそうじゃありません。先週の聖書箇所に一つ大切な言葉が残っていました。1章9節、神が最後まで堅く保って下さる理由。それは神は真実なかたである。と言う事です。何もかも委ね切って良いという事です。
あなたのクリスチャンライフは神によって始まりました。
① 十字架のキリストの愛①と②のセットで始まりました。
② 神の御指名という、恵みと憐れみによって始まりました。
③ それを始めて下さった神は真実な方である。
それはあなた方の信仰が人間の知恵に支えられず神の力に支えられる為です

説教要旨
トラブル解消の方法は原点に立ち帰る事です。クリスチャンライフは神によって始まりました。これを「召される」と言います。人は自分がキリスト教を選んだ。自分の知恵によって悟った。神を認めた。行いによって救われた。と考えてクリスチャンライフを自分で始めたと言って自分を誇り易い。そこで神は世の中が「愚かだ」と言う方法を取られました。ただ十字架のことば、神の愛の宣言に信頼する者に神が力を注いで救いクリスチャンライフをスタートさせる、という方法です。この事を忘れると誇り高ぶりが生まれトラブルが起こります。真実な神によって始まるライフは恵みと希望に溢れています。時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えましょう。
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