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「魂の飢え渇き」 (末吉貞雄師)

2015年5月17日

聖 書
コリント4章6-17節
4:6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
4:7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
4:11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
4:14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
4:15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
4:16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
4:17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

キリストのある
一寸先が不明な中を生きるのは非常に不安ですね。先週「すべてのものはあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリスとは神のもの」と聞きました。全て・あなたがた・キリスト・神、そして神は全てのものを支配しておられます、その全てのものがあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、と言うサイクル、この繋がりの中をあなたが生きて行くなら、その不安は必要ありませんね。このサイクルに入って下さい。救いのサイクルですね。どこから入りましょうか。入口は一か所です。あなたがキリストのものになることです。

 しかし、この救いのサイクルは単に不安解消の為にあるのではありません。神様の事業に関わる事にもなります。使徒、牧師、伝道師だけがそれに関わるのではありません。ですから16節でパウロは勧めていますね。「どうか、私にならう者になってください」。その為にパウロは17節で同労のテモテをコリント教会に遣わしました。17節「彼は私が至る所の全ての教会で教えている通り、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう」。「キリスト・イエスにある生き方」とはキリストのものとなって、この全てのもの・あなたがた・キリスト・神という救いのサイクルに入って神様の事業の一端を担う生活のことです。

 「一端を担うなんて言われたらクリスチャンになるのは大変だなあー」と思われるでしょうが心配いりません。神の事業は点描画の様なものです。点描画は点点で絵を描きます。前に出て近寄って点点を見ると何が描かれているのか分かりません。「何ですかこれは絵ですか。落書きじゃないですか」と馬鹿にされるでしょうが、後ろに下がって見た時に「なるほど!」と分かる、そしてもっともっと下がると「これは素晴らしい芸術作品だ」と称賛されるのが点描画です。皆さんは、その一点になります。これならあなたも出来るでしょ。そこで大切なことが一つあります。色を出す事です。色気ではありませんよ。画家である神様の望まれる色を出すことです。

 ところが、コリントの教会ではこんな声が上がっていました。「一点?それじゃ面白くありません。私は筆で上手に描けます」と言うことで満足するまで自由に描き出しました。一つの色ではなくて豊富な絵の具で色を一杯塗りました。教会は展覧会の様になり、多くの来場者から称賛の声が上がりました。しかし、それは神様の事業から外れていました。この手紙を書く前にパウロは何通か書いていた様です。しかし、なかなか耳を貸そうとはしないのです。それでパウロは非常に感情が露わな言葉で彼らの思い上がりを指摘しました。それが今日の聖書です。思い上がりは救いのサイクルから私達をそらせますので要注意ですね。

心を開き続けよう
そこで大切なのが、信仰の原点に返る事ですね。皆さんちゃんとキリストのものになっているでしょうか。神様とあなたの間に、和解の仲介者として、贖い主として、キリストに入って頂いていますでしょうか。ローマ5章8節の「私達」を「私」に置き換えて読んでみましょう「私がまだ罪人であった時、キリストが私の為に死んで下さったことにより、神は私に対する御自身の愛を明らかにしておられます」。この御言葉に信頼を置いて下さい。そしたら心を開いて神の愛を受け取ることになります。信仰的な熱心とか活躍とか貢献とか実績は、満腹や富や王を目指させる誘惑があり、横柄や高慢を生み、心を開く事を軽視するようになります。

コリントの教会は満ち足りて豊かで、王様になり、賢さ、強さ、栄誉を与えられていました。これらのものは教会にとって信仰にとって大切なものではありません。私が牧師になる為に会社を辞する時の事です。辞職が受け入れられるだろうか、非常に心配しました。申し出た時に、優しい社長は私を励ますつもり「日本一の牧師に成れ」と言って下さいました。牧師に日本一なんかありません。私はそんな牧師になる気はありませんと心で思いましたが、その場は講釈する時ではありませんでしたので、元気よく「はい、頑張ります」と答えました。神の事業は世の事業とは違います。神の作品点描画の点に成る事です。皆さんも日本一の信徒になる必要はありません。点に成って下さい。いくら小さな点でも一点一点はかけがえがありません。

「こころの貧しい人は幸いである。」これはイエス様が大勢の人を前にして語られた第一声です。こころが貧しいとは、神に生かされなければ憐れまれなければ生きて行けない、とする魂の飢え渇きですね。鳥の巣の中で親鳥の帰りを待つ雛を見習いましょう。例えばツバメを見掛けたら目で追ってみて下さい。戻る巣の場所が確認できます。お店の入り口の庇の裏とかに巣があります。親鳥が戻る瞬間、雛が口を顔一杯に開いて、首を精一杯伸ばして、大声を張り上げて餌を求めます。この飢え渇きの姿勢に教えられますね。体裁とか人の目とか全く気にしないで乗り出すように求める飢え渇きです。キリストに対する飢え渇きが信仰のポイントです。

2コリント5章17節「だれでもキリストと結ばれる(にある)なら、その人は新しく造られた者である。」飢え渇き、心を開き、そこに神の愛が注がれます。愛は力です。その力が働き、人が新たにされて行く、神様の事業とは、あなたを新しく造ることなんです。新しく造られる。何だか希望がありますね。神様に期待して下さい。

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