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「愛は人を造り上げる」 (末吉百合香師)

2015年6月7日

聖 書
Iコリント8章1‐8節
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。

神に知られている確かさ
 皆さん、週報に「礼拝者の心得」が書かれてあることをご存知でしょうか。1として、「礼拝の時間を守り、出席者は前の方から着席し、黙祷して静かに神を待ち望みましょう」、とあります。教会に来て大切な事は、ここに集まった一人ひとりがまず神の下に導かれることです。一人ひとりが神の下に導かれる時に、1節に有ります、人の徳が高められます。教会は色々なことを行いますが、その目指す所はここにあります。
 コリントの町は宗教の町で、様々な教えの総本山がありました。その神殿や神像が沢山建っています。各地からお参りに来た人が多量の家畜を奉げます。その捧げられた肉が町の肉屋さんでも売られていました。そこで教会に問題が起こりました。それは、クリスチャンが他の神々のお供え物の肉を食べて良いのか悪いのか、と言うことでした。
 私はクリスチャンホーム育ちで信仰的理由だったのか不明ですが、出雲大社の事も地元の祭りの事も詳しく知らずに育ちました。10月が他県では神無月でも出雲は神有月ということも県外に出てから知ったぐらいです。しかし何故か、七五三の着物姿の写真はありました??そして結婚して末吉家の人間になりました。末吉家には沢山の神々が祭られていました。仏間に仏壇があり、事務所に御稲荷さんと巳さん、台所には三宝さんがあり、二階の部屋の壁いっぱいに民間神道の神習教の神棚がありました。これが日本の家なんだ・・とつくづく思いました。遊びに行くと母に三宝さんのごはんの取り替えや榊の葉の水替えをよく頼まれました。正直な所、抵抗がありましたね。クリスチャンの行為としてこれでいいのかしらって。でも断ったら家族に水臭いと伝道の障がいにならないかしらと・・悩んだことを思いだします。皆さんも、こんな経験があるのではないでしょうか・・
 さて、先ほどのコリント教会の人たちが他の神々のお供え物の肉を食べて良いのか悪いのかという問題ですね。その答えは、はっきりしていました。4節から6節で説明されていますね。この知識を与えられている人は肉を食べて良いのです。4節クリスチャンは「唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」ですから供えられた物を食べてもその偶像を拝んだことにはならないのです。
でも7節で、使徒パウロは「しかし」と続けます。
 以前のパウロだったら偶像の供え物を食べることに関して、4節から6節の正しい知識に従って食べればいいんだ。それで一件落着と教えたでしょう。しかし、イエス・キリストによって今は考えが変わりました。

 2節「人がもし、自分は何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどの事も知ってはいないのです。」これは、信仰者の全てが自分と同じように強い人ばかりではないことにパウロが気付かされたというのです。特にまだはっきりとした信仰の見極めができずにいる人たちに配慮が必要なんだと気付かされたのです。

 かつてのパウロは自分が神の事を知っていると言う知識に支えられていました。1節の知識は4-6節の事ですね。しかし、イエス・キリストを知ったことによって、もっと確かな支えを彼は知りました。
3節の「自分が神に知られている」と言う事です。詩篇139篇は神に知られている事がいかに私たちの支えと成るかを歌っています。1046p(新改訳)1-13節を読みます。神の下に導かれ、神に知られている事に気付かされます。ここに本当の支えがあったのです。自分が神の事を知っていると言う知識に支えられている時には、彼は自分の信仰の主張が先に立っていました。しかし、神に知られている事に気付かされた時、つまり神の愛が迫って来た時、彼は自分が「まだ知らなければならないほどの事も知ってはいない」者である事に気付かされたのです。

信仰のいのちを守る
 4-6節の知識を与えられている人は信仰を持って自由に偶像のお供えを食べて良いのです。しかし、信仰の知識が不十分な人もいます。その人たちが見て「えっ、あの人が偶像のお供えを食べている」とショックを受け信仰がぐらついたり、反対に食べた人を裁いたりする、そう言う躓きを起こさせる危険もあるとパウロは気づかされたのです。私たちは長い信仰の経験から、出来る限り配慮をしようと考えていると思います。ですが、人間ですから不十分ですよね。でも、それは悪気から発生したことではないことは確かです。神に愛されている者として今自分に何ができるかと考えた結果です。
また日本人ですから、遠慮と気遣いは表裏一体ですよね。また、同じキリストを信じていても、感じ方や受け取り方はそれぞれ違うのですから、私たちは知らなければならないほどのことも分かっていないのです。全てを正しく理解して下さるお方は主お一人です。ある姉妹が私に伝えて下さった言葉に嬉しいなと思ったことがあります。「神さまは全て正しく私を知っていてくださるので、何か心が騒いだ時には上を見上げます。そうすると安心が来ます」と。

お互いに言葉も行動も不十分な者同士ということを忘れないようにしたいです。理想はやはり自分の気持ちを相手に素直に伝えられること。伝えられたことをそのまま受け取ることが出来ることですね。でも、難しいことかもしれません。なので、お互いの信仰のいのちを守るセーフティージャケットを身につけましょう。それは「自分は無知な者である」というお互いの自覚です。これは弱い者と強い者が共に神さまの愛に与る秘訣です。
 
家族としての教会
 コリントの教会の中では裁き合いや、傷付け合い、躓かせ合いが生まれたのでしょう。それは教会に相応しくありませんね。それはパウロをまた神さまを悲しませました。
何が神の下に人々を導くのか。それを第一に考えるのが教会です。知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる。
 教会は神の家族と例えられます。それも、昔の大家族を考えるとよく解ります。一致と平和がある家族は幸せですね。勉強の成果が思わしくなかったり、仕事で問題が続けて起こったり、そんな家族の一人ひとりを近視眼的にではなく、長ーい目をもって見守る、家族ってそんな関係ですね。見守りという愛の関係の中で一人ひとりが成長し、造り上げられます。
 さて、パウロの言う愛の原点は何でしょうか。イエス様の愛です。
私が子育てに入る時に大先輩がとても良いアドバイスを下さいました。赤ん坊の間は「かわいい。かわいい。で育てるのよ」と。赤ん坊は夜泣きをします。生まれた一月は昼と夜が逆転しています。おっぱいをあげても、おむつを替えても、どんなにあやしてもぐずりが終わらず、親の方はもう堪忍袋の緒が切れそうになります。だから、かわいい、かわいい、で育てなさいとのアドバイスだったのです。もう一つ、「あなたの事が世界で一番大好きなのよ」と伝えなさいというアドバイスを貰いました。我が家は三人の子供がいますが、全員にひとりひとりこっそりそのことを伝えました。イエス様の愛は、こういう愛です。堪忍袋の緒が切れるような私たちをかわいい、かわいいと言って下さいます。また、十字架に上って死んでくださるほどに、ご自分のいのちを賭してでも、私たち一人ひとりに「あなたの事を世界で一番愛している」と言ってくださるお方です。私たちは皆、このイエスさまに愛されている一人ひとりなのです。お互いがイエスさまに愛されている一人ひとりとして愛の関係を造り上げて欲しい、とパウロは考えているのです。
 パウロは教会にそのような関係が生まれることを望みました。皆が互いの事を思いつつ神さまに向かうことを願いました。近視眼的に成らず、長―い視点をもってお互いを見守り合う、そんな神の家族を目指して欲しい。そして、その具体的な事柄を通して神の愛が人を造り上げることを証明してほしいと願ったのです。牧師も信徒も共にそのような神の家族を目指しつつ、愛によって一人ひとりが神さまに造り上げて頂くために力を合わせて行きましょう。

説教要旨
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」教会は人を神の下に導くという素晴らしい奉仕を与えられています。 使徒パウロも知識に長けていた。つまり強い者であった。しかし、キリストの下に導かれ、長けていた事を強い者である事を塵芥の様に思う者と変えられた。長けていない者の弱さ、強くない者の弱さを担う事の方が素晴らしい事に目が開かれたのである。私たちはますます神の愛に共に育てられ、共に神の恵みに与り、神によって共に造り上げられたい。

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