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「真実な神」 (末吉百合香師)

聖 書
1コリント10章1-22節
10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
10:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
10:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

 パウロはギリシャのコリントという町の教会に手紙を書いています。そこは私たちの日本と同じ様に偶像の町です。
今朝パウロは、福音に生きた自分に与えられた確信を「是非知ってもらいたい」と語りはじめます。それは「神は真実な方」、このことを是非知ってもらいたいと語ります。

初めに1-11節で、出エジプト記に記されてあるモーセと神の民イスラエルのことを引き合いに出します。1-2節、神の民イスラエルは指導者モーセに導かれエジプトの奴隷の生活から脱出します。神は雲の中におられ、行く道を示されました。彼らを葦の海に導き水の中を通らせます。葦の海の水の中を通らされたことを、バプテスマつまりあれは洗礼だったのだと言います。イスラエルの民はエジプトの奴隷から神の子となる洗礼を葦の海をくぐることに於いて受けたのです。3-4節、荒れ野で食料と水が底をついた時、天からマナと呼ばれる食べ物を食べました。岩から水を飲みました。この食べ物は、肉体のいのちを救っただけではなく、彼らの信仰を養うためでした。教会では肉の糧と霊(魂)の糧という言い方をします。5節、にもかかわらず彼らの一世たちは40年の荒れ野の旅の最後に滅んでしまいました。約束の地に入れませんでした。原因は「神のみこころにかなわ」なかったからです。不信仰に落ちたのです。昼は雲の柱、夜は火の柱の中に神様は共にいて下さって、いのちの水と天からのマナを下さったにもかかわらず、彼らは神さまを信頼できませんでした。
7節、神様がモーセを山に呼び出され、40日たっても帰って来ません。民たちは自分勝手に、モーセはもう帰って来ないと判断し、金の子牛の像を作ってそれを囲んで拝み、飲んで踊ってどんちゃん騒ぎです。

自分たちが窮地に陥った時に神に助けられると、「信じます」と言いますが、不安に襲われ静かに祈って待たなければならない状況になったり不幸が起こると、他の神々の所に行ってしまったのです。

この出来事があるのは、現在の私たちが教訓とするためです。
民たちはモーセが山に登っていつ戻って来るのか、獣にでも食われたのかとやきもきしました。その間、モーセは何をしていたのでしょうか。神が約束された地に入った時に平和に暮らすために、神様からいろいろと支持を受けていたのです。
私たちにも平和が保障される為に憲法が与えられています。憲法は自国の権力者から国民を守るためのものです。現在の日本国憲法は大変素晴らしい、世界にも類を見ない平和主義を念頭においているものです。そこには沢山の事柄が決められています。日本国民の平和が保障されるのみならず世界の人々の平和も共に保障する内容です。この憲法を持っているという事は世界に誇るべき事だと思います。あの恐ろしい戦争を引き起こした日本に、こんな素晴らしい憲法が与えられたことは、神さまの憐みに他なりません。この憲法があるからこそ、日本が再び軍事国家に戻ることはないと、世界は安心したのです。特に東アジアの国々には安心感があるのです。

それと同じようにモーセは、神さまから約束の地に入った時に、平和に生きるための掟を、十戒を土台とする掟です。40日40夜に亘って事細かく支持されました。また、今いる山の麓から出発するための準備もこの時、事細かく支持を受けていたのです。万全の準備をして荒れ野の旅を再出発するためです。エジプトから脱出するときには、エジプトの王パロの気が変わらぬうちにと急いで出発しなければなりませんでした。神さまの支持は、出エジプト記の20章から31章まで11章に亘っています。
この山での神さまのモーセに対する支持の数々は、ご自分の民に対する神さまの真実の愛の数です。
その神の愛を表すみことばが出エジ20章5,6節です。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」とあります。咎は4代までですが、恵みは千代までと、恵みがどんなに大きいかが明らかですね。これも神の真実です。
しかし、モーセの兄のアロンがいたにもかかわらず民たちは金の子牛を作って拝みました。兄アロンは口下手なモーセの代わりに神の言葉を民に伝えていた者です。いつもモーセの横にいたアロンが何故「もう少し忍耐して待て」と民を諭すことが出来なかったのでしょうか?
私たちも「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなさい。」との12節の警告に耳を傾けなければなりませんね。
それでパウロは「神は真実な方です。あなたがたの耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます」と神の真実に目を向けよと勧めます。
パウロ自身幾度も脱出の道を備えられた体験をしたことが使徒言行録を見ると分かります。
試練は私たちを神から離れさせるためのものではありません。
ある神学者は「神は試練の内におられる」と言っています。
神さまはあなたの問題を私に訴えなさいと待っておられます。試練は、私たちが神に近付くために与えられています。

自分や家族の健康の問題、職場での問題、夫婦間の問題、子どもの問題、私たちにはいつも沢山の祈りの課題が与えられます。それは私たちが神に近付くためです。「この問題の内に、あなたの真実を私に見せて下さい、あなたの真実を見るまで忍耐する者と成らせて下さい」と祈る者にして頂きたいと思います。神様は今、私たちの神への信頼を期待しておられます。

さて、16-17節は聖餐式に於いて読む箇所です。主イエスの十字架と主の復活と言う事実は、私たちに対する神さまの真実をはっきりと示された出来事です。
聖餐はこのことを深く覚え、感謝し、神さまの恵みを味わう時です。パウロは偶像に惑わされそうになっているコリント教会の人たちを見て、あなたがたは聖餐のパンと杯に於いて神の真実を味わっているのではありませんか、と語りかけます。
イスラエルの民も同じ御霊の食べ物、同じ御霊の飲み物を味わいました。岩からの水はキリストと言う岩からの水です。キリストは言われました。自分が与える水は「永遠のいのちへの水である」ヨハネ4:14と。また「わたしは、天から降ってきた生きたパンである」ヨハネ6:51と言われました。荒れ野での食卓は神の祝福の食卓です。その恵みの食卓から食べた民が、他の神を拝んでしまった訳です。なんと残念なことかと嘆き、こんなことがコリントのあなた方に起こってはなりませんとパウロは言います。

16-22節でパウロはキリストのからだと血にあずかるという、荒れ野の神の食卓に勝る、キリストの祝福の食卓である聖餐の食卓に付いた者が、同時に他の神々に仕えることは出来るはずがありません、といいます。どんな試練の中に置かれたとしても他の神々に行ってはなりません、といいます。そこには決して解決は無いからです。偶像の神には何の力もないからです。神ご自身が試練の中におられ、私たちに逃れる道を用意しておられます。神は私たちの信頼を期待して待っておられます。

パウロは自分の体験した確信を他にも伝えています。ローマ8章35節以下で「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、今あるものも、のちに来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちのキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。

11章1節、パウロが自分を見習ってくれと言っているのは、自分の信仰を自慢しているのではありません。私たちの信じる神は、真実な神様なのだ、その神さまをもっともっと体験してほしいと言います。
私たちは毎日の生活の中に課題が与えられています。その課題の中に主はおられます。ご自分により頼んでくる者に、逃れの道を用意して待っておられます。

説教要旨
コリント教会は多神教の世界に有り、未成熟な信仰共同体であった。パウロはその様子をモーセの率いたイスラエルの民の中に見ていた。民は荒れ野で数知れず神の恵みを受けたが、試練に会った時その恵みを忘れ、民の心は神から離れ、金の子牛の像を拝んだ。神はイスラエルの民と同じように私たちの信頼度をテストされる。だから、パウロは自身の体験から「神の真実」に目を留めよと、叫んでいる。
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