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「主から受けたこと」 (末吉百合香師)

聖 書
1コリント11章23-26節 
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです 



23節パウロは「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです」と語ります。
今朝は「主から受けたこと」、この事に注目したいと思います。これは全ての人が受け取っているものです。キリスト者になっていなくても、受け取っています。それは、この地上でのいのち、人生です。
パウロは二つの事を喜んでいます。一つは、自分の人生において救いに与ったことが、最高の出来事であること。二つ目は、救いに与った者として「救いを伝える立場」を受け取った事です。

 今朝は私の主から受け取った歩みを証させて頂きたいと思います。私が救いに与ったのは19歳のクリスマスです。みことばを学ぶ機会は、教会学校の教師という奉仕を通してでした。本当によく聖書を読みました。青年会の例会では、教会とは、礼拝とは、献金とは、奉仕とはという教会生活の土台となる事を東京神学大学小冊子を使って皆で学びました。みことばと学びは私の教会生活の基礎を確かなものにしてくれたと当時の青年会に感謝しています。
結婚生活から子育て期間に突入しますと御多分に漏れず、よく言われるフーポンクリスチャンになりました。日曜日の礼拝の時だけ聖書を開く信徒になりました。長男と末の娘は4才しか開いていませんし、次男と娘は11か月の違いです。座る暇もない子育ての真っ最中でした。そのフーポンの時に、神さまは夫に牧師に成るようにと迫られました。その時の私の心境は、皆さんが想像される通りです。
その時にいくらフーポン信徒でもやっぱり真剣に祈りました。与えられたみことばは「わたしのしていることは今あなたには分からないが、後になって分かるようになる」というヨハネ13章7節のみことばです。私自身は納得できない事でしたが、このみことばに信頼する他ありません。入学願書を提出すると神学校の寮は満室。校長曰く「それでも入学しますか」でした。夫と共に家族で東京に行きました。夫の神学生としての三年間を終え、京都の嵯峨教会に赴任しました。牧会という現場に向き合って痛感したことは、聖書の学びを深めたいというものでした。行き詰った時に前を向かせて再出発させてくれるのは、みことばです。私はこのことを確信しています。人の言葉ではなく、主の言葉を土台として歩みたいからです。みことばを私の人生の物差しとして歩みたいからです。私は30代でしたから人生の経験も短く、子育ても始まったばかりで、牧会の中の様々なことに対処する為に、みことばを深く学ぶ必要を思わされました。

そして、私にとってもう一つ重要な理由は、主から受け取った牧会者としての人生を、受け身ではなく、喜びとして受け取り直す為に神学校で学ぶ時間は必要な時間でした。その時に頂いたみことばはピリピ2章13節、口語訳です。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神の良しとされるところだからである」このみことばを頂いてから2年間祈り続け、神さまからゴーサインが出ました。41歳になった時です。
神学校を卒業するまでの5年間は、批判も沢山ありましたが、短大の宣教師たちはじめ応援して下さる方も沢山ありました。その方々との時間は私にとって貴重な時間であり、楽しい出会いでした。神学校の学びを終え、私は牧会者の道を受動的ではなく、主体的に再スタートしたのです。神学することの喜びを理解できるようになりました。説教の準備は生みの苦しみですが、みことばの内にある新しい発見は喜びです。また皆さんと分かち合えることも大きな喜びです。

ヘンリ・ナウエンという方が著書の中で、こう言われています。「今や問題となるのは、救いの杯をどのように飲むかです。自分に与えられた杯をゆっくりと飲まなければなりません。一口一口味わいながら、すべてを飲み干すまで。人生をまっとうして生きるとは、杯が空になるまで飲み干すということです。神がそれを永遠の命で満たしてくださると信じつつ」
このコメントは主イエスがゼベダイの息子であり友人であるヤコブとヨハネに尋ねられた記事に対するものです。主イエスは彼らにこう尋ねられました「わたしが飲もうとしている杯をあなたがたは飲むことができるか?」二人はこの時、主イエスの言われる杯が何であるか理解していません。後に知ることになります。

私たちはこの地上の人生を主から受けています。これに該当しない人は一人もいません。その人生に主の救いの杯を受け取ること、これが最高の人生です。誰もが人生を全うします。しかし、神が永遠の命で満たして下さる人生、これに勝るものはありません。

さて、救いを受け取った私たちが、この命をどう生きるかが重要です。次の問いはどう生きるかを教えています。「主の杯が飲めますか?一滴も残さず飲み干せますか?悲しみと喜びの全てを味わえますか?何が来ようと、あなたはあなたの人生を、とことん生き抜くことができますか?」

ちょっとひるみそうになりますね。でも神さまは支える言葉を下さいます。25節を見て下さい。「わたしを覚えて」とあります。想起することです。イエス様を思い起こすのです。これは「イエス様はこんな方だったよね」というのではありません。現代の映像技術に3Dがありますね。自分があたかも映像の中に存在すると感じる世界です。それと大変よく似ています。イエス様の世界の中に自分がいるのです。
先程の問いを受けて、私たちは杯の恵みをしっかり味わうのです。主はわたしのために十字架と言う杯を受けて下さった。この深い主の愛に感謝します。主はその愛の中を歩む者を支えて下さいます。主はどんな人を招かれますか。主は誰を褒められますか。主はどんな聡をくださいますか。主は私の歩み方に何を求められますか。みことばの中に生きておられる主にお出会いしましょう。この時間は、とても大切です。主の手は、私たちをとことん生き抜かせる力を持っておられます。

次にどう生きますか。
この主の事を、自分の中に隠しておきますか。
貞雄牧師が聖餐式の終わりに言ったと思います。「まだ、パンとぶどうジュースが残っています。これは、まだ救いに与っていない方々のために備えられているものです」と。
26節の「主の死を告げ知らせる」とは、杯の味わいをまだ味わっていない人と分かち合うことですね。
毎年行われているティーンズキャンプでは、最後のプログラムが、恵みの分かち合いです。キャンプで受けた恵みを皆の前で全員が発表します。彼らは自分の言葉で発表します。凄いと思います。彼らが主の味わいを証する人になることを目指しています。でも、何も気取らないですし、とても素直に自分がキャンプで味わったことを発表します。とても良い訓練だと思います。私たち大人も負けておられませんね。
主から受けた恵みを分かち合えるものにしてくださいと、今朝も皆さんと共にお祈りしたいと思います。

説教要旨
私たちはこの地上の人生を主から受けています。これに該当しない人は一人もいません。主の救いの杯を受け取る人生、これが最高の人生です。ヘンリ・ナウエンという方が「今や問題となるのは、救いの杯をどのように飲むかです。」と述べて、救いを受けた者がどう生きるのか、が問われると言います。その道は平たんではないことを予想します。しかし、主は飲み干す力、生き抜く力を下さいます。その味わいを自分の言葉で伝えること、「主の死を告げ知らせる」ことを私たちは主から要請されています。
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