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「死に打ち勝つ神」 (末吉百合香師)

聖 書
1コリント15章50-58節
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。



皆さん、漫画家のやなせたかしさんのキンダーのおはなし絵本「あんぱんまん」を御存じでしょうか。40歳になって初めて出された絵本です。遅咲きの漫画家ですね。「あんぱんまん」は二、三才のこどもが大好きな絵本です。私も大好きです。あんぱんまんはお腹を空かせている人のところに行って、自分の顔を食べさせます。このお話の背景には、ご自分の戦争体験があります。シベリアで空腹には勝てないとの凄まじい経験があったからです。人間の命が保たれる最低限のことがお腹が満たされることなのです。絵本のあとがきにこう書いておられます。1973年です。「本当の正義というものは、決して格好の良いものではないし、そしてそのために必ず自分も深く傷つくものです。そういう捨て身、献身のこころなくして正義は行えませんし、また私たちが現在ほんとうに困っている事と言えば、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、闘わねばならないのです。あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロのこげ茶色のマントを着て、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。」
やなせさんはクリスチャンではありませんが、あんぱんまんは聖書に通じるところがあるなあと思います。やなせさんの正義には自己犠牲があるからです。あんぱんまんはその代表作です。
今朝は、あんぱんまんのうたを紹介いたします。
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび。 たとえ 胸の傷が痛んでも。 なんのために 生まれて なにをして 生きるのか。 こたえられないなんて そんなのは いやだ! 今を生きることで 熱い こころ 燃える。 だから 君は 行くんだ ほほえんで。
 この歌は、やなせさんの戦死された弟さんのことも含まれているのでは、と言われています。弟さんは帝国大学を卒業し直ぐに空軍に志願され、特攻隊としてその生涯を終わりました。あんぱんまんがボロボロのマントで飛んで行くのは特攻隊を表しているのかもしれません。なんのために 生まれて なにをして 生きるのか。という歌詞は、弟は特攻で死ぬために生まれたのではないはずだ、というやなせさんの思いがあります。
この歌が伝えたいことは、はっきりとした生きる希望を知って、正しく生きたいということです。

51節で今朝パウロは「私はあなたがたに奥義を告げましょう」と言います。はっきりとした生きる希望を告げます。それは、次の事です。
今週の中心聖句に選んだ54節「死は勝利にのまれた」この宣言は、私たちキリストを信じる者にはこの素晴らしい事をイエス様がしてくださったという宣言です。イエス様が十字架で死んで、墓から甦られたことは、いのちを与えられている私たちの最大の敵である死に勝利されたことです。このことは私たちがどんなに果敢に挑んでも実現できないことです。Ⅱテモテ1章10節にも「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」とあります。このイエスを信じる私たちには死に勝利する恵みが備えられています。この希望は、私たちが生きるための明確な希望です。キリストを信じるとは、この明確な希望をもって生きる人生です。

先週、コリントの教会には復活を信じない人たちがいましたね。グノーシス派と呼ばれる人々です。教会の歴史が始まったばかりで、福音理解もギリシャ哲学の影響を受けたりして、混乱していました。グノーシス派の人たちは、復活を信じないのですから復活の身体も信じません。それで、35節以下で復活の身体の事でパウロと論争になったのです。
旧約聖書に人間創造の記事が二か所あります。一つは創世記1章26節以下。二つ目が2章7節です。この箇所は現在の結論では、異なる資料が存在し、初めの人間創造の資料が二つ存在したという事です。しかし彼らの主張は、1章の人間は超地上的な人間の創造で、2章の方は地上的な人間の創造と考えたのです。1章の超地上的人間の本質は知識(グノーシス)と知恵(グレース)と霊を持っていると考えます。そして、キリストを信じた時に超地上的人間の本質を与えられ、すでに天上の人にされていると主張したのです。だから復活も復活の身体も必要ないと主張しました。

パウロの理解は違います。キリストを信じた時も同じ肉の身体です。46節「御霊のものはあとに来るのです」。そして、50節「朽ちるものは朽ちないものを相続できません」この地上の身体のままでは神の国に入れません。52節「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに、死者は朽ちないものによみがえり、わたしたちは変えられるのです」。つまり、イエス様が再び来られる時に、私たちは復活の身体に変えられます。49節にあるように今は土で造られた者の身体ですが、復活の時天上の身体が与えられるのです。55節はホセア書13章14節の言葉をパウロは引用し、ホセアの予言が主イエスによって実現したとしています。
56節、律法を完全に守っても復活の命を頂くことは出来ません。いえ、人間には律法を完全に守ることは不可能です。信仰の成熟を求めて、清められることを求めて、開かれた心を与えられることを求めて私たちは歩み続けます。しかし、罪の性質がすべて無くなることはありません。罪は私たちを死に至らせます。そこから救うためにキリストが来られたのです。キリストだけが死に勝利される神さまだからです。
57節「しかし、神に感謝すべきです。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。」死への勝利は、キリストを私たちの救い主と信じることによってのみ与えられる恵みです。

世界にはさまざまな信仰があります。この地上のいのちをより良く生きるために、益になる信仰も沢山あります。しかし、キリストは死に勝利されました。ですから彼を信じる者はこの地上で終わりではありません。キリストだけが復活のいのちをもっておられ、信じる者にお与えになることが出来ます。天上のいのちの方が遥かに長いのです。天上のいのちの準備のために、私たちクリスチャンは地上での生き方が問われます。私たちのいのちが地上で終わりであるのなら、32節にあるように「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになります。
しかし、私たちの信じる主イエスは復活の身体を用意して、私たちを迎えに来られる方です。この希望は他にはありません。
この希望の下に、58節でこう言います。「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのです」

あんぱんまんのお話も、沢山のキャラクターが生まれて、悪いのやわがままなのや色々のが登場してきます。このキャラクターは地球の人々を表現しています。パンですから敵はばい菌マンです。ほのぼのする所は、邪魔に入るばい菌マンを完全にやっつけない所です。また、ばい菌マンはお尻ぺんぺんして叱ってくれる強いおばさんには「ごめんなさい」と誤ってしまいます。そこには、悪い人間にも善良な部分はある。ただ、悪い部分が多過ぎるだけで、全部真っ黒ではないというやなせさんの考えがあります。

中東の問題も歴史に理由があります。何故部族紛争になったのか。大国が中東を植民地支配し、それに批判が起こり返還する時に支配した側が当事者に相談もせず、勝手な国境線を引き、部族が分断されました。スンニ派とシーア派と一緒にどのような国境が引かれるのが最善なのか時間がかかっても話し合う事が出来たのではないかと思います。ISの問題も、あそこまで追い込んでしまった原因があると思います。それを横に置いて乱暴にミサイルで攻撃しても解決にはなりません。それは正義ではないからです。ベトナムもイラクも武力で解決できませんでした。どちらも、武力の敗北でした。現実が答えを出しています。
先週イランの核開発問題が何十年ぶりに解決の糸口にたどり着きました。各国の平和外交が最後まで諦めないで実を結んで欲しいです。
ベストセラーを出したフランスの経済学者トマ・ピケティは、新鮮な事は何も言っていません。持っている者が持たない者に提供することを提案しました。持っている者がさらに持つのは資本主義の弱点です。分かち合うことが欠落し、世界の富はアンバランスになり弱者が生まれます。それは、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」と言っているのと同じです。
私たちは主イエスの姿を思い出しましょう。イエス様はガリラヤでパンを祝福し、それを裂いて分けて、そして4千人また5千人を養われました。分かち合う事には神様の大きな祝福があることを示されたのです。

私たちのキリストは死に勝利されました。それによって私たちは生きる明確な希望を、復活と言う希望を与えられました。ですからキリスト者は地上のいのちで終わりではありません。復活の身体を頂くのに相応しい歩みをするために、私たちが成すべき事は沢山あります。小さなキリストの群れの小さな働きです。しかし主にあって無駄でないことを私たちは知っています。

説教要旨
私たちのキリストは死に勝利されました。それによって私たちは生きる明確な希望を、復活と言う希望を与えられました。ですからキリスト者は地上のいのちで終わりではありません。復活の身体を頂くのに相応しい歩みをするために、私たちが成すべき事は沢山あります。小さなキリストの群れの小さな働きです。しかし主にあって無駄でないことを私たちは知っています。

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