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「初穂なるキリスト」 (末吉百合香師)

聖 書
1コリント15章1-22節 
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。



先週私たちは、キリストを信じる者の歩むべき道を聖書から示されました。それは、キリストが歩まれた愛の道です。この手紙を書いた使徒パウロは、この道を追い求め続けた人です。
今朝「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、キリストは私たちの罪のために死なれたこと」と3節にあります。
愛の道には「心の貧しい者の道」がありました。心の貧しい者の道を歩めと言われたのは、ご自身がこの道を歩まれたからです。3節の「キリストが私たちの罪のために死なれた」というのは、キリストが心の貧しい者の道を歩まれたのです。
 十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。これはキリストが神の愛を示すために、父なる神に見捨てられるほどに、父からいかに遠く離れ、私たちの所に来てくださったかという事です。
そして、十字架の死は、神の栄光を捨て神の子キリストがこれ以上貧しい姿となることはないほどの、究極の貧しい姿となられたのです。キリストの貧しい姿は、究極の神の愛を示しています。

ヨハネの福音書は冒頭1節で「ことばは神であった」14節「ことばは人となった」と言い、神が人となって私たちの間に住われたと告げます。そのキリストが死なれた。十字架の上で苦しまれた。その苦しみとは、あらゆる時代や場所に住む人間の苦悩が、キリストの命に取り込まれたのです。私たちの罪、恥、孤独、飢え、病、抑圧、搾取、拷問、投獄、殺人、暴力、また、核による威嚇まで、キリストが苦しんだことのない苦しみは一つもありません。このことは、預言者たちが以前から伝えていたことです。現在のこの世の苦悩は、神の苦悩でもあります。
現在においてもなくなることの無い、女性、男性、こどもたちの抱える苦悩。セクシャルハラスメント、マタニティーハラスメント、パワーハラスメント、こどものいじめと自殺等々は、ゲッセマネの園でのキリストの苦悩の底知れない深さを示しています。私たちの歴史の中に、キリストの苦しみが明らかにされます。世界の歴史に苦しみが続く限り、キリストの苦しみは続きます。
キリストは現在も貧しい人として生きておられます。

4節「キリストは葬られ、三日目によみがえられました」
復活の記事は幾つかあります。
その一つに、エマオでの二人の弟子と復活のイエスの記事があります。ルカ24章。二人はイエスが十字架につけられた後、意気消沈し、自分の故郷へ帰る途上でした。主人であるイエスの死に、打ちのめされ、落胆していました。当時、国がローマに支配され、真の自由がほとんどなかったので、誰もが心から自由を待ち望んでいました。二人はイエスが自由をもたらしてくれると胸を膨らませていました。しかし、全てが無に帰しました。二人は生気を失い、抜け殻のようになって故郷へ帰る途上でした。陰気な絶望の道です。
イエスは二人と並んで歩いていましたが、彼らは誰だか気づきません。イエスは二人の悲しい話にじっと耳を傾けます。落胆した気持ちにまっすぐ入って行きます。無理解、裏切り、不当な裁き、拷問、死というご自分の経験から、人が抱く絶望がどのようなものかをよく解っておられました。人間のはかなさをご存じでした。歩いて行くうちに、二人はこの横におられる人が、安易な慰めの言葉をかけているのではないことに気付き始めます。
イエスは何を話されたでしょうか。すべての希望を置いていたイエスについてです。イエスは実際に死に、埋葬され、そのイエスが生きているということについて話されました。以前称賛したイエスに、つい先ほど生じた死と滅亡が、解放の道になったということです。そして、イエスがそれを伝えたことで、二人の心の最も深いところで、イエスのたどった道が彼らの道ともなりえることに気付きました。
イエスが話されているとき、二人は心に新しい何かを経験しました。それは外から来たものではなく、内側から沸き起こった炎で心が燃え立つ感じでした。それはあまりに信頼に足るもので、あまりにも現実的で、失望を吹き飛ばすものだったので、心が燃えたのです。彼らは、最も悲惨で、最もつらく、最も絶望的な状況が、何にも増して思い焦がれていた解放への道となるという経験をしたのです。これは、人間の常識的感覚を超えています。
心によってのみ理解できるものです。だから聖書は、道々お話になっている間「心は燃えていたではないか」と言います。

二人の中には、生きることへの新しい確信、あるいは新しい喜び、新しい命、新しい霊としか言えないようなものが生まれました。二人は全く新しい経験をし、この人と別れたくありませんでした。エマオに付いた時、無理やりこの人に同室に泊まるようにと懇願します。
この夜、私たちにとって大変重要なことが起こります。それはまさに、霊的生活の確信に触れるものです。夕食の時、イエスはパンを取り、それを祝福する祈りをし、それを裂き、彼らに分かち合与えます。イエスがそうしている間に、二人は突然揺るがぬ確信で、この見知らぬ人はあのイエス、死に追いやられ、墓に横たえられた、あのイエスだと分かりました。しかし、その確信が与えられた瞬間、イエスは姿を消したのです。
パンを裂いているのがイエスだと認めた瞬間、イエスの肉体としての存在が、彼らの抱いた新しい希望にとってもはや必要でなくなったのです。彼らとイエスとの絆があまりに親密になったからです。心に希望を抱くために、肉体をもったイエスの出現を必要としないほど、イエスが近くに来てくださったのです。
二人は来る道で話した時のような新しい命が心に生まれ、それが心の内に留まっているのをかみしめます。その経験は、命の危険が待ち受けるエルサレムに引き返す勇気を彼らに与えます。二人は全く別の人になったのです。

キリストの復活は信じる者に全く新しい命を与えます。私たちはキリストを信じた時、全く新しい人にされたのです。この復活のキリストはパウロにも表れ、彼を福音伝道者にします。10節「神の恵みによって、私は今の私になりました。」11節「あなたがたはこのように信じたのです」。私たちも同様です。

さて、コリント教会にはキリストを信じると言いながら、死者の復活を信じない人々がいました。それでパウロは12-19節のことを述べています。キリストが死んだままであるなら、先ほどの新しい命を頂いて無い事になります。そうだとすると、死んだままだということです。それでは、その信仰は一番憐れなものです。

パウロは教会の信仰は、そうではない!と断言します。20節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から甦られました。」
初穂というのは、一番初めに出てくる穂です。キリストは復活の始まりとなってくださった。新しい命の始まりとなってくださったのです。旧い命の初めはアダムですが、キリストは新しい命の始まりです。初穂とは、次に出てくる穂があるという事です。キリストを信じる者は全ての者に新しい命が与えられています。

説教要旨
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」パウロはコリント教会の人々に何故こんなことを今更言うのでしょうか。復活を信じない人々がいたからです。しかし、復活の無いキリストには希望はありません。キリストが私たちの罪故に滅んでしまうからです。復活は全ての苦難から立ち上がらせる力です。キリストの復活は初穂としての新しい命の始まりです。

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