INDEX    RSS    ADMIN

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「幼子の様であれ」 ( 末吉貞雄牧師)

聖 書
マタイ11章25-30節
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」


神秘的なもの、大きなもの、不思議なものを見て人は恐れ神を感じます。例えば巨大な木があったらそれを神様として祭ります。素朴な山の神、海の神、土地の神など全国あちらこちらで祭られました。ところが人が人を支配し社会を統制しようとする時に、この神々も統一され部族ごとに氏神が祭られ、国が統一される時にも神々の親神、例えば天照大神というのが祭られました。先の戦争の時は現人神とされた天皇によって統制されました。歴史を振り返ると人は神様を利用して社会を統制してきました。私達人間は神様を利用する性質を持っている事を忘れてはなりません。
作家の住井すゑさんは『橋のない川』という長編小説で、天照大神や他の神々からも差別された人々が、どこまでいっても目の前には橋のない川が横たわっている現実を物語って世に問い掛けました。「きっと人間が作ったり利用したりしない本当の神様がその川に橋を架けてくださる」これが住井すゑさんの思いではないかと察します。そしてその神様をイエス様が伝えておられるのです。

今日読んでいただいた聖書のポイント①はイエス様が皆さんの前でも「この神様は本当に素晴らしいです」とほめたたえられることです。実はこの頃イエス様は町々を巡り奇跡を見せたり、教えたりして一生懸命に神様の事を伝えておられました。しかし、誰も信じなかったのでした。ちょっとガッカリですね。しかしイエス様はこの経験を通して神様のお考え、御計画を知りました。前々から聞いていたでしょうが、改めて今確信を持って「この神様は本当に素晴らしいです」と宣言しておられるのです。神様は御自分の事を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現されます。「これが素晴らしい!」とイエス様は絶賛されるのです。

皆さん「知恵ある者、賢い者」とは誰の事でしょうか。神を利用する人の事だと思います。自分は神が必要か必要でないかで信仰のことを考えている人の事だと思います。では「幼子」とは誰の事でしょうか。原語は幼児と言う言葉をあえて使っていません。「人前で話せない」と言う不思議な言葉が使われています。自分に自信と言いますか主導性が無ければ人前では話せませんね。しかし今日の説教題は皆さんに自信のない主導権の無い頼りない未熟な人間になれと勧めているのではありません。幼子とは自分の主導権を神に渡して握ってもらう人の事だと思います。27節この神様が受けて握られる主導権に関して、イエス様は神様から一切を任されました。それで28節でイエス様は「わたしのところに来なさい。」主導権を私に預けてみませんか、と招いておられるのです。

29-30節イエス様に主導権を預けるとは、イエス様と共に軛を負う様なものなんです。二頭の牛を使って畑を耕す場合、二頭並んだ牛の首に一体になった器具を装着して力を一つに集めて耕します。この器具が軛です。つまりイエス様と共に人生の重荷を負うのです。皆さんは分かっておられますね。自分の人生の重荷は自分で負わなければならない、と言う事を。もちろん私達はお互いに助け合います。しかし、その人の代わりに負う事は出来ません。皆さん、これが私達の人生ですね。そこでイエス様は皆さんに言われます「幼子の様になるために、私のもとに来て、私の軛を負い、あなたの人生をあなたと私で負いましょう」。

畑の牛の一方の牛が疲れても、もう一方の牛が力を出します。進む方向の決め方も自分一人で決めることは出来ません。最初は窮屈さを感じるかもしれませんがイエス様は「問題ない」と言われます。その思いの表れが30節の軛の負い易さと軽さです。作家の遠藤周作さんは中学生の時無理やりクリスチャンに成らされたが、今はクリスチャンにしてもらって良かったと思う事を洋服に例えておられます。日本人である私は最初無理やり洋服を着せられた様な窮屈さで一杯だったが、それを着続けた今は不思議に自分の体にピッタリ合う、もう手放すことができない服になりました。遠藤さんが変えられました。29節イエス様の軛を負うて、心優しく謙られるイエス様に学ぶとは、共に軛を負う中で変えられて行く事です。
28節休ませてあげよう。29節魂に安らぎが来ます。この「休息」「安らぎ」と言う言葉は「ストップ」という意味の言葉が使われている特別の言葉なんです。真に立ち止まれないのが私達の人生ですね。止まれない人生の途中でキリストは立ち止まらせて休ませて下さいます。そして最後に完全に立ち止まらなければならない時もキリストがそうさせて下さるので安らぎます。このキリストにお任せしませんか。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。