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「天から地に」 (末吉貞雄牧師)

聖 書
マタイ17章1-8節
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった

 ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネは漁師で、イエス様から最初に「わたしについてきなさい」と呼ばれてついて行った弟子でした。この3人だけをイエス様が特別に呼ばれる時が二回あります。その一回目が今読みました高い山に登った時です。

 そこで弟子達は三つの経験をしました。①顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなって神の栄光を表すエスさまを見ました。②エリヤは神によって天へ取り上げられる様に死に、モーセは神の命令で死に神が葬られたので、2人とも神の所天国に行ったのだと考えられて来ました。その二人が現れてイエス様と何かを話しているのを見ました。この二つでペテロは天国が天からこの山頂にやって来たと理解しました。そして決定的なのは③神がそこにおられる事を示す雲に覆われ、その雲の中から「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言う事を聞きなさい」と神の声が聞こえました。

 ペテロがイエスとモーセとエリヤの為に三つのテントを立てる提案をしました。その後で彼はきっと自分たちの為のテントも立てるつもりだったでしょう。彼はもうそこに住む気になっていました。しかし神の声の恐ろしさの余りに3人は地面に伏せざるを得なかった様です。・・・「起きなさい、起きなさい、こわがることはない」イエスさまに起こされて顔を上げた時は、何もかもが消えていて、普通の山の頂上といつものイエス様しか見えませんでした。

 聖書にはありませんが彼らは「イエス様、天から地に天国が」と言う目でイエス様を見上げたんじゃないでしょうか。イエス様もうなづかれたんじゃないでしょうか。人は天(国)へ、神さまのおられる所へ行くものだと、一般に考えられています。修行をしたり、善行を積んだり、悟りを開いたり、浄霊したり、色々な宗教活動がありますが全てが、天へ神へ仏へ上へと自分を高めて行く事ですね。しかし、ぺテロたちが経験したのは、その反対です。実はこの三人は根っからの漁師で、学も才も悟りも無い、宗教の世界から見たら相手にされない人達でした。そんな彼らの所に天(国)が神が近づかれたのです。
 天(国)の方が、神の方が、この大地に今生きる私たちに近づく、全くの逆がイエス・キリストに起こっているのです。イエス様はこの三人の弟子にも皆さんにもこの事を伝えたいのです。しかし皆さん、現実は厳しいですね。災害や戦争や事件事故、障害、病・・・問題が山積みです。そこにも天国が近づくのでしょうか。

 そこでイエス様がもう一度三人の弟子だけを連れ出された所を紹介します。マタイ26章36-46節56ページ。イエス様はゲッセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」と彼らに願い「我が父よ、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」と神さまに願われました。これから権力ある者の不当な扱い、侮辱、弟子達の裏切り、痛みと苦しみ渇きという十字架につけられなければならなかったからです。
 
ある牧師は、「マタイ17章が一番高いところなら、この26章以下の十字架は一番のどん底です」と言っておられます。十字架はローマ帝国で使われた一番重い刑です。苦しみの余り早く死にたいと思うがなかなか死ねないからです。「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と言って息を引き取られるイエスさまを最後まで見張っていた死刑執行隊の隊長が「本当に、この人は神の子であった。」と言いました。最悪の所に立たされているイエスさまと天国が、神が、共にあることを感じたんでしょうね。

 『天から地に』です。イエス・キリストにおいてそれが起こります。皆さん、あなたが頑張って天に神に向かう必要はありません。天の方からあなたに向かって来るのです。必要なのはあなたの一番中心(ハンドル、舵、操縦桿)に、一番奥(応接間ではなくて奥の間)にお迎えする事です。幼子の様に心を開いて受け入れる事です。あなたは自分を天へと神へと高めなくて良いのです。その信仰は人を見下します。注意しなければなりません。神がイエス・キリストにおいて低くなり罪あるあなたに近づき、「私はあなたと共にいるよ」と言って下さいます。そのキリストを中心に、奥に迎えましょう。ここからあなたの信仰が始まります。あとは神様に任せればよいのです。重要なのは、あなたが頑張ることではなくて神さまに任せることです。働いて頂く事です。自分には何が出来るのだろうかと思案することではなくて、神さまはこんな自分を用いて何をして下さるのかと期待することです。