INDEX    RSS    ADMIN

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「 賛美への招き 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカによる福音書17章11-19節
17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
17:14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17:17 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。
17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。

ルカによる福音書は13章からイエスさまがエルサレムへ向かって進んでおられることを伝えています。今朝の箇所もその途中のサマリヤ付近を進んでおられるようです。その途中のある村に入られると、重い皮膚病を患っている十人の人たちが出迎えます。彼らは遠くのほうに立っています。イエスさまに近づくことができないからです。ユダヤの律法では重い皮膚病にかかっている場合、人々の中に入ることはできず、人々から離れたところに隔離されました。当時はそのような人は穢れていると考えられたのですが、現代的に考えれば、感染を防ぐ意味があったと思います。
 イエスさまの病気を癒す評判はこの村の人々にも聞こえていました。十人の人たちは遠くの方から、「イエスさま、先生、どうぞ憐れんでください」と自分の苦しみを訴えます。イエスさまは彼らをごらんになりました。

 ここは、この箇所の第一のポイントです。そして、ここから二つのことを読み取ることができます。
一つ目は、イエスさまが見ておられるのは何かということです。
 皆さんはイエスさまが何を見られたと思いますか。
二つ目は、この十人とは誰かということです。
主が見つめられるもの
一つ目のイエスさまが見ておられたのは何でしょうか。
皮膚科のお医者様のように彼らを診察されたのでしょうか。現代のお医者様なら、細胞をピンセットで摘み取り、顕微鏡で皮膚を犯している原因となっているものを調べ、その原因に効果のある薬と治療方法をコンピューターで検索するでしょう。イエスさまの時代はコンピューターがありませんが、神の子の能力でそれを瞬時に診断し癒されたと聖書は伝えているのでしょうか。イエスさまはそのように彼らを見たのではありませんでした。
彼らのもっと奥深いところにある問題をご覧になりました。彼らはこの病気のために家族から引き離され、村の人たちとの交わりからも断絶されていました。彼らの問題は表面的には病気の癒しですが、病気が引き起こしているもっと深い問題があることをイエスさまは見ておられました。彼らには十人の同じ境遇の仲間はいましたが、しかし、大きな孤独の中にあったのです。
彼らはどんなに家族の元に帰りたいことでしょうか。村の人々との交わりの中に戻りたいでしょうか。
イエスさまは十人の人たちの深い孤独をご覧になっていました。14節の「見て」という言葉には、そのような深い意味があります。

 私たちの現実にもこのような状況がいくつもあります。
先日のニュースで、都会の孤独の現実を突き付けられました。老夫婦と息子が餓死していたという報道です。その数日前も同じような餓死の報道がありました。各自治体に福祉課や民生委員などの制度があるにも関わらずこれが私たちの現実です。お互いが無関心であり、他人に迷惑をかけてはいけないという日本人特有のものも影響しているのでしょうか。本当に悲しい現実です。
孤独に対する共感
二つ目の、この十人とは誰のことでしょうか。
彼らは声を張り上げて「わたしたちを憐れんでください」と言っています。
では私たちは、こう叫ぶ必要はないのでしょうか。
 十人の人たちの叫び「わたしたちを憐れんでください!」この叫びは、今の私達に、先ほどの孤独死から、また東日本から聞こえてくる叫びです。私たちも連帯ということにおいて、今風には「絆」と言うことに於いて、共に成すべき叫びではないでしょうか。
 また、私たちの群れにも、重い現実を受け取っている方々があります。私たちはその方たちと共に「わたしたちを憐れんでください!」と、主の眼差しを知っている者として、そう叫ぶ者でありたいです。

神の憐みによって
 次に第二のポイントに進みましょう。
それは、私たちは神の憐みによって生きている、ということです。
彼らは、祭司のところに行くようにと告げられ、その途中で清くされます。しかし、癒されてイエスさまのところに戻ってきたのは何人だったでしょうか。15節、十人の中の一人だけでした。彼らは「憐れんでください」といって、癒されたのです。彼らは神さまの憐れみに触れていただいて癒されたのです。でも、戻ってきたのは一人だけでした。その人は、16節、サマリヤ人です。10章には良きサマリヤ人の話がありましたね。敵対関係だった傷ついたユダヤ人の旅人を懇切丁寧に介抱したのが、外国人のサマリヤ人です。何故、聖書はサマリヤ人だけが戻ってきたと告げているのでしょうか。
先週の聖書日課の1コリント1:31に「誇るものは主を誇れ」とありました。聖書の中のサマリヤ人はユダヤ人にすれば救われないと見られていた人です。でも、そのサマリヤ人が主の元に返って来たのです。
 また、旧約聖書にも重い皮膚病を癒された人物がいます。列王記第二5章、シリヤ人(ルカ4:27)ナアマン将軍です。癒されたナアマン将軍は戻って来て信仰を告白します。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」。イスラエルの神さまが真の神さまだと告白しました。この人も外国人です。シリヤ人のナアマン将軍は、聖書のユダヤ人のように自分にはアブラハムがいるモーセがいるというような驕りはありません。その人が神様の憐みに気づかされました。自分を誇る時には、主の憐みに気づけないと、聖書は伝えているのでしょうか。私も気づかない内に自分を誇っているのではないかと思わされています。

今朝の中心聖句の15節「そのうちの一人は、自分の癒されたことがわかると、大声で神をほめたたえ(賛美し)ながら引き返して来て」ここが重要です。
特に後半の「大声で神をほめたたえ(賛美し)ながら」という部分が重要です。何故でしょうか。それは、彼が、この出来事を、神さまの憐みだと受け止めているからです。それに気づいた彼は、全く自然に賛美が出てきたのです。
彼はきっとスキップしながら、飛び跳ねながら神さまをほめたたえイエス様の元に返ってきたでしょうね。
使徒パウロも勧めをするときに必ず、神の憐みによって勧めます、と自分が神の憐みによって立たされていることを証します。
これが、今日の第二のポイントです。

皆さん、私たちはどうでしょうか?自分もこの戻ってきた一人の方に属したい、そう思いますよね。でも、それは本当でしょうか?本当にこのサマリヤ人のように受け止めているでしょうか。毎日の出来事を神さまの憐みだ、と受け止めているでしょうか。    今の時期のほうれん草の赤い部分の甘さや、春の新ジャガや新キャベツの甘みを感じられること、それらは神さまから素晴らしい味覚が与えられているから感じられます。家族が与えられていること。友が与えられていること。健康が支えられていること。仕事が与えられていること。祈りができること。聖書が読めること。数えればきりがありません。この毎日のことを神さまの憐れみに触れていただいている、と受け止めているでしょうか。
私たちに与えられる毎日の出来事は、神さまの憐れみ無しには何一つ起こらない、そう考えているでしょうか。たとえ自分にとって満足に思えない日々であっても、神さまの憐れみは何時もそこにある、そう受け止めているでしょうか。私自身そのように、受け止められる者にしていただきたいと願っています。

なぜなら、復活して今も生きて働かれるキリストは、重い皮膚病の人たちを見つめられたように、私たちのことも毎日見つめていてくださるからです。皆さんの内にある誰にも分かってもらえない苦しみや孤独、恐れや不安、その全てをキリストは昼も夜も見つめておられます。神さまの憐れみを信じてこのキリストの前に共にひれ伏しましょう。するとキリストは皆さんに今朝もこう言ってくださいます。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」
 
戻ってきたサマリヤ人は、病気が癒されただけではありません。まことの命に通じる罪からの救いをいただきました。キリストは「あなたは救われた」と宣言されたのです。彼は、自分の望み以上のものをいただきました。私たちもまた、このサマリヤ人のように、事毎にキリストの前に賛美と感謝をもって共に戻ってきましょう。その時キリストは、わたしたちの望み以上のものを与えてくださいます。今朝、私たちは賛美するものに成るように招かれています。

説教要旨
主は十字架に向かうためにエルサレムへの途上にある。その途上でひとりひとりと関わってくださる。今朝は重い皮膚病の人達だ。主は見つめられた。憐みの眼差しで・・。主の憐みによってその病は癒された。感謝をもって戻って来たのはサマリヤ人唯一人。主の憐みに気づいたのは彼ひとり。何故、彼一人なのか?サマリヤ人とは誰なのか。彼は全存在をもって主の前に賛美と共にひれ伏すために

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。