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「 神の国が来る 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカの福音書17章20-37節  説教    2012.3.4
17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」
17:22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。
17:23 人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。
17:24 いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。
17:25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
17:32 ロトの妻を思い出しなさい。
17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
17:35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」
17:36 [本節欠如]
17:37 弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

今朝はルカ17章の三つ目の段落になります。最初の段落では、イエスさまの厳しい要求に答えるために、からし種一粒の信仰を求めなさいと聞きました。それは、小さな信仰ですがイエスさまに一途に従っていく信仰でした。
 
二つ目は、一途に従う信仰をいただいたなら、毎日の生活が、神さまの憐れみによるのであると気づかされるのでしたね。神さまの憐れみに気づくとき、賛美と感謝が生まれます。あの、重い皮膚病を癒されて唯一人イエスさまのもとに戻ってきたサマリヤ人は、そのことを表していました。厳しい寒さの二月が過ぎ、春を感じられる季節にようやく入って来ました。神さまの憐れみを沢山気づかされるこれからの季節は楽しみです。教会の花壇のパンジーやばらが厳しい寒さの中をじっと耐えている様子に、「もうすぐ暖かくなるよ」と声をかけたくなる今年の冬でした。皆さんもきっと神様の憐みにいろいろとお気づきになった先週一週間であったのではないでしょうか。

神の国は信仰のただ中に
さて、三つ目の今朝の箇所は、神の国がテーマです。
この箇所に二つの質問があります。この段落は、20節の「神の国はいつ来るのか」と最後の37節の「どこでですか」、この二つの質問で囲まれています。
しかし、質問に対するイエスさまの答えはどうでしょうか。20節後半以下「神の国は、人の目で認められるようにしてくるものではありません」、37節後半「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」と答えられました。
これらは、「いつ」「どこで」という質問の答えになっていませんね。何故イエスさまは、答えにならない答えをされたのでしょうか。
それは、二つの質問が、神の国の本質において重要ではない事柄だからです。神の国、それがいつくるのか、どこで起こるのかは重要ではないのです。このことから、パリサイ人たちや弟子たちは神の国における重要な事柄を理解していなかったことが分かります。
さて、私たちはどうでしょうか。からし種一粒ほどの信仰のときと同じように、見当外れなことを考えていないでしょうか。

 神の国の本質とは何でしょう。それが、イエスさまの答えの中に示されています。「神の国は見える形では来ない」と言われます。
12年前に21世紀が始まるとき、大騒ぎになりましたね。大晦日にはカウントダウンをして、世界中がお祭り騒ぎになりました。神の国はそのように来るのでしょうか。
 21節を見てください「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とあります。
今日の箇所は17章の最後の段落です。イエスさまに一途に従う信仰は、毎日の生活の中で神さまの憐れみに気づかせ、そこに、賛美と感謝が生まれました。信仰者にとって賛美と感謝があるということは、どういうことでしょうか。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とイエスさまはおっしゃいます。つまり「賛美と感謝がある者たちの中に神の国がある」とおっしゃっています。

 ルカ17章は、重い皮膚病に掛かるという、日常の出来事を通してイエスさまと出会い、お言葉をいただき、イエスさまに一途に従った一人の人に賛美と感謝が生まれたとき、その人の只中に神の国が実現していることを伝えています。そしてもう一つ覚えておきましょう。神の国はイエスさまを経験した個人の中で実現するのではありません。「あなたがたの」とありますから、同じ経験をしている者たち、つまり、神さまへの賛美と感謝が生まれる共同体の中に神の国があるのです。これは、教会の姿ですね。なんと幸いなことでしょうか。そしてこれは、まさしく信仰の世界です。1コリ1:18「十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」この信仰に立っているならば、ここで言われている神の国を見ているのです。キリストを通して救いの御業が行われたことを信じる信仰が与えられた私たちは、今、礼拝に集っている私たちのただ中に神の国を見ていることの幸いを感謝したいと思います。同時に、私たちの教会にいつも賛美と感謝があふれているかどうか、このことが大切であることも覚えましょう。困難に立ち向かっているときに、賛美し感謝することは難しいことです。しかし、それを共感し祈りを共にする友がいることによって、困難の中にも賛美と感謝を主が生まれさせてくださいます。だから神の国なのです。完璧な人間が集まっているから神の国なのではありません。

神の国の完成に備えて
さて、この真理を語られた後、イエスさまは弟子たちに向き直って語られます。
22節「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます」。
「人の子の日」というのは、イエスさまがもう一度来られる日のことです。イエスさまがもう一度来られる日とは、どういう日のことでしょうか。イエスさまを信じる者たちの中に既に神の国が実現しているのに、何故イエスさまがもう一度来なければならないのでしょうか。
 人の子の日とは、神の国が完成される日です。神の国は信じる者たちの中にイエスさまとの出会いを通して実現していますが、まだ、未完成なのです。「人の子の日」とは、神の国が完成される日なのです。ですから、その日を一日でも見たいとあなた方は望むでしょう、と弟子たちにおっしゃったのです。

23節以下は、人の子の日が、予期せぬ時に起こることを伝えています。ノアの洪水やソドムの町の滅びはそのことの代表です。どちらも、その日の前まで、いつも通りの生活を皆がしていたのです。しかし、ノアが箱舟に入る「その日」、そして、ソドムの町の滅亡の「その日」は突然に来たのでした。
「人の子の日」は、突然に来ます。わたしたちはいつでもその備えができているでしょうか。だから、私たちのうちに賛美と感謝がいつもあることが重要になってきます。私たちのうちに賛美と感謝があるなら、その日がいつ来ても平気です。

また、この世では、財産が自分の命を生かすものですが、神の国ではそれらは何の役にも立ちません。しかし、この世でそれに執着しているものは、その日が来たときに、突然自分の有り様を変えることはできません。ロトの妻はこの世のものに心惹かれ後ろを振り向いてはならないという神様の言葉を忘れ、振り向いてしまいました。そのようにこの世に執着している者は、それに心惹かれ、後ろを振り向くであろうと言われています。

また、「同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼を引いていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます」ここを読むと、神の国の完成のその日は、待ちわびるというよりも、とても恐ろしいと感じます。そして、自分は連れて行ってもらえるのだろうか、と心配になります。
しかしこれは、「その日」に期待して歩む者の人生と、そうでない者の人生が、一人は取られ、一人は残されるという表現で対比して言われています。この地上での歩みが、神の国の完成のその日に通じているのです。

もう一度22節を見てください。
「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。」とあります。その時は、見ることができるような余裕はありません。それは、私たちの想像をはるかに超えることで、見ることなど到底できない出来事なのです。
しかし、「その日」は必ず来ます。37節で「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」と言われたのは、死体があれば禿鷹が必ず来るでしょ、というユダヤの諺です。「その日」は必ず来ます。ですから、この地上の人生は、その日に備える日々なのです。
「その日」に備える最大の秘訣は何でしょうか。
「神の国が来る」このことを毎日確認して歩むことではないでしょうか。具体的には、
・ 神の国よりもこの世のほうに執着が強くないだろうか。
・ イエスさまを信じることによって生じる困難を避けていないだろうか。
・ そして、何よりも神さまの憐れみに対する賛美と感謝が自分のうちに、教会の中に、毎日生まれているだろうか。
おそらく私自身の毎日は◎△▽×と評価するなら、きっと▽△この辺りだろうと思われます。かなり身びいきをしてですが・・。しかし、先ほどの三つのことを意識して生きるのと、何も意識しないで過ごすのとでは結果(信仰の結ぶ実)は大きく異なると思います。一年先、五年先、十年先の私たちの在り様の変化を神さまはきっと大きな期待をもって見つめておられることだと思います。私たちが親であれば、子どもの成長は何よりの楽しみですね。神さまも同様です。誰よりも神さまが私たちの在り様の成長を願っておられます。

説教要旨
今朝の段落は、17章のまとめになる。神の国とは。パリサイ人と弟子たちは「いつ」「どこに」と考えた。ここでも、私たちと神様の考えられることの相違があるのを見る。神の国はキリストを救い主と信じる者たちの中にある。賛美と感謝があり、ポジティブな集団。そこに神の国はある。未完成だが、神の国である。人の子の日、それは神の国の完成のためにキリストが再び来られる日だ。「その日」は必ず来る。その日に備えるために、今があるのだ。

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