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「 神の報い 」 (末吉百合香師)

聖 書
ルカの福音書18章9-14節 
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

祈りを着る
 イエスさまは「気を落とさずに祈るように」とおっしゃって、信仰者として最後まで忍耐をして歩むようにと励まされました。

以前の教会を牧会していた時のことです。引退された牧師の奥様が老人施設におられました。何度もお伺いした中で、忘れられない言葉があります。その時は青年の姉妹と一緒でした。大変喜んでくださいまして、その姉妹が教会員であることを伝えますと、こう質問されました。「今も、教会へ行っていますか?」「はい」「それは良かった。長い間には教会に行きたくないことや、いやなことがあったりいろいろあるでしょうが、どうぞ、最後まで命を掛けて教会の礼拝に出席してください!」と、現役のときを思い出させるような励ましをなさいました。90歳半ばを過ぎられた婦人のその言葉は、わたしたちを大変勇気付けるものでした。この方のように、最後まで忍耐して信仰によって歩み抜きたいと思わされました。そして、その若い姉妹のために一生懸命祈ってくださいました。
この婦人のところにお尋ねする度に感じたことですが、祈りが身に付いているんですね。祈りをお洋服のように着ているという感じです。祈りが自分の生活の原点になっていること、このことは、信仰から決して離れることがないと思わされました。        
「気を落とさずに祈る」ことは、信仰によって歩むことにおいて、忍耐強い信仰者とされることを思います。

信仰者の落とし穴
先ほどの婦人の言葉にもありましたが、長い信仰生活の間にはいろいろあります。ですから、信仰者は祈りの生活をするのです。「神さま、こんな思いもよらないことが起こりました。どのように受け止めればよろしいでしょうか」と祈ります。
しかし、祈りの生活をする中で注意が必要だとイエスさまは今朝おっしゃいます。
ということは、祈っているなら決して間違いは犯さないとは言えないということです。
祈るときの心持や、祈り手の視点が大切です。
そこに問題がある場合、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下してしまう」ということが起こってくると言われます。

イエスさまは祈り手である私たちに、そこをしっかりとわきまえるようにと言われます。案外わたしたちは信仰の故に、自分の価値観は正しい、とうぬぼれる危険性を持っているのです。

さて、今朝のたとえには二人の祈り手がいます。この二人を通して、祈るときの心持や、祈り手の視点がどうあるべきか、問うておられます。
一人はパリサイ人で、もう一人は取税人です。もう一度この二人の祈りに注目してみましょう。

まずパリサイ人の祈りから。11-12節、パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ、私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことに取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」とあります。11節に「立って」とあります。この立ってというのは、「自分の側に立って」という言葉です。また、「心の中で祈った」とありますが、ほかの聖書では「自分に対して祈った」と翻訳しているものもあります。
神殿には本当に多くの人々が祈りに来ています。わたしたちも礼拝で祈りをささげます。礼拝の祈りには、「皆様の心にある祈りと合わせてささげます」という思いが込められています。つまり、代表者が祈るのですが、それは礼拝の会衆全員の心にある祈りと一緒に神さまにおささげする祈りです。そのように祈り手が表現してもしなくてもそういう祈りです。
しかし、このパリサイ人は周りで祈っている人々の祈りと自分の祈りをロープで囲うように区別しています。周りの罪深い人の祈りと自分の祈りは全く時限の違うものだと考えているかのようです。この姿はこの人の心持や視点を表しています。自分の落ち度のない行い、献金の金額、それらが祈る資格を与えるものだという視点です。そして、祈りをささげる根拠として自分にはその資格があるという心持が感じられます。

さてここで、わたしたちはこのパリサイ人のような心持や視点は無いと断言できるかどうか、もう一度自分自身を振り返ってみる必要はないでしょうか。必要の無いことをイエスさまはおっしゃらないと思うのです。

神さまに招かれる者
次に取税人の祈りを見てみましょう。13節、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」
彼が遠くに立っているのは何故でしょうか。パリサイ人のような資格はないので、その人たちから遠く離れているのでしょうか、自分にはあの人たちのような立派な信仰はないと思っているからでしょうか。彼は頭をたれて胸をたたいて祈ります。
「罪人のわたしを憐れんでください」
彼には自分を誇れるものは何一つありませんでした。彼が遠くに立ったのは、彼が自分を憐れな罪人だと気づいていたからです。彼と神さまとの関係において希望があるとすれば、それはただ一つ神さまの憐れみでした。神さまに憐れんでいただく他に、彼の希望はなかったのです。

イエスさまの言葉が響いてきますね。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
罪人を招くためというのは、悪いことをする人を喜ばれるというのではありません。
神さまの前に、自分のことを自分で正しいとする人ではなく、神さまの前に、自分は愚かで貧しい精神の持ち主で、罪を犯すまいと願っても罪を犯してしまうそのようなものです、だからわたしを憐れんでくださいと告白する者を招かれます。

恵はいっそう満ち溢れ
わたしは使徒パウロの、この言葉を思い出します。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」ローマ5:20
取税人は、このパウロの言葉を体験しました。
彼は神殿で遠くに立っています。物理的にはそうですが、彼の精神はパリサイ人の何倍も神さまの近くにあります。
自分を信頼しているパリサイ人は、自分を丈夫な太いロープで囲って取税人から離れているだけではなく、神さまからもずっと遠くに離れて立っているのです。彼は自分の世界で満足しているのです。
一方、取税人は神さまのふところに抱かれている幼子のようです。「罪が増す」とパウロが言っているのは、神さまの前に自分はいかに罪深く、惨めで、心の貧しい、弱く、はかない存在であるということを、深く知っていることではないでしょうか。彼が信頼できるのは自分ではなく、神さま唯お一人です。そんな彼に対して、神さまはご自分の恵みを溢れんばかりに満ち溢れさせてくださるのです。
では、「恵みはなおいっそう満ち溢れる」とパウロが言っているのは、どのような喜びでしょうか。
それは、罪にまみれて深いがけに落ち、泥まみれになり傷だらけになった迷子の羊が、あたりは暗くなり狼が出てきてかみ殺されるかもしれない心細さの中にあるとき、羊飼いであるイエスさまに見つけ出され、そのがっしりとした腕で抱き上げられ、暖かい肩に担がれたとき、どんなに安堵し喜びに満ち溢れることでしょうか。「恵みはなおいっそう満ち溢れる」とは、そのような喜びではないでしょうか。

わたしたちは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」のですが、その時に、信仰者ゆえの落とし穴に落ちないように、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という主の言葉を思いつつ祈り続ける者とされたいと願います。イエスさまは、このようにねんごろに私たちの祈りの生活を導いて下さるお方です。神さまの私たちへの報いはイエス様ご自身です。感謝です。

説教要旨
 祈りは着物のように身に着けるものということを、先輩の信仰者から学んだ。教会生活(神の国の生活)において、思いもよらない時に備えるためだ。祈りは私たちの防備。しかし、祈りの落とし穴に注意!と主は警告される。祈り手の心持や視点は祈りに大きな影響を及ぼす。自分を高くする者と自分を低くする者はどちらが神に近いのか?さて、私はどうだろう?神さまは、弟殺しのカインに皮の衣(祈りの衣?)を着せた。神さまは、私たち(教会)にどんな祈りの衣を求められるのだろうか?

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