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「 父なる神の求め 」 (末吉貞雄師)

聖 書
ヨハネ4章19-26節
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

わたしが与える水
 イエス様はあなたに言われます「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(13節14節)」。私たちも礼拝でこの水を頂きます。この水は何なんでしょうか。

 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きる。と聖書にあります。人は水だけで渇きをいやすのではなくて、神の口からでる言葉によって渇きがいやされる。これは聖書にはありません。私が考えた言葉です。礼拝で語られる御言葉がこの水です。この水がその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。礼拝は、この水を受ける為に献げます。礼拝は私たちが神様にサービスする事ではなくて、神様が私たちにサービスして下さる事です。ですから、私たちにとって大切なのは、そのサービスを受け取る姿勢です。

手を合わす
 日本人にとって礼拝と言われて最初にイメージする事は、まず手を合わせる(合掌する)事でしょうね。仏壇屋さんの宣伝のキャッチフレーズに「朝に礼拝(らいはい)夕べに感謝」「手を合わせ、し合わせ」なんていうのがありますね。みなさん、手を合わせるとはどう言う意味があるのでしょうか。
 グーで手を合わせて見て下さい。これは何を意味しますか。「もう反抗いたしません。堪忍いたしました。降参です。お縄に掛けて下さい。手錠を掛けて下さい」と言う事ですね。
 皆さん覚えておられますか。平原宣教師夫妻が教会に来られた時に、手を合わせて「マナステー」とタイ式の挨拶をされます。合掌が挨拶なんですね。東南アジアの豊かな気候風土の中で生まれた大変穏やかで、上品過ぎる表現です。ここに合掌のルーツがあります。手を合わせて「私はあなたに敵対しませんよ。あなたの仲間ですよ。あなたに仕える者ですよ。」と相手にサインを送って挨拶としているんですね。手を合わせるとは、本来、支配者に対する服従と言う厳しい意味があります。

跪(ひざまず)く
 聖書が生まれ風土は、その反対です。先週お話しましたカラカラに乾燥した厳しい気候風土の西アジアで生まれました。今日読んでもらいました聖書に「礼拝」と言う言葉が9回繰り返されています。この「礼拝」と言う言葉は原語ギリシャ語では、二つの言葉が合わさって出来ています。一つは「前にでる」、もう一つは「口付けする」です。支配者の前に出て跪いてその足下に口付けをする、平伏する、これが礼拝です。イスラム教のモスクで礼拝している姿、あれですね。
 合掌と跪く事この二つは全く違う表現ですが、礼拝する対象に対して「自分はあなたに対して反抗しません。あなたに仕え従う僕です。」と言う共通の事を示しています。これが礼拝なんです。しかし「日本人は合掌だ。跪くイスラムでも、十字を切って手を組むキリスト教でもない」と言います。初詣に行って商売繁盛、無病息災、合格祈願、家庭円満、などお願いをしますが、「私はあなたに敵対する者ではありません。あなたに仕え従います」と礼拝した人はおそらくいないでしょうね。日本人の礼拝感覚は希薄です。私達自身も礼拝する時、注意しなければなりません。聖書は伝えています。神さまは人間を礼拝者として造られました。

救いと礼拝
 サマリヤのスカルという町の女がキリストと出合い、永遠の命に至る生ける水の話を聞いて、魂の渇きに目が開かれ「その水をわたしに下さい」と言って救いを求めました。そして、その後20節から彼女は礼拝の事を質問しています。魂の渇きとは、人間が礼拝者として造られているのに礼拝していない故に起こる渇きです。13節と14節でイエス様がおっしゃった事は、礼拝で人間に生ける水が注がれ、生かされ、救いの業(永遠の命に与る)が始まる事でした。
 彼女は最初礼拝の場所の事を質問しました。ダビデ王の時代にエルサレム神殿が総本山とされました。しかしその後ダビデ王国は南北に分裂し、北王国の首都はサマリヤとされ、サマリヤにあった族長ヤコブ以来の聖所(きっとべテルではないかと思われる)を総本山としました。つまり国だけではなくて礼拝も分裂しました。その礼拝はまことの礼拝ではなかったのでした。
 それで21節イエスは女に言われました「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」イエス様が来られた目的は、人間がまことの礼拝をして、その魂の渇きが癒され、生かされ、永遠の命に至ることなのでした。
 22節「わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています」まことの礼拝で一番重要なのは何を礼拝するかです。案外知らないものを礼拝しています。変哲も無い普通の木を誰かが最初に拝んだのが始まりで、噂で広がり参拝者が増え、いつの間にか縄が付けられ鳥居が置かれ賽銭箱まで出来て御神木となる事があります。言い伝えと言うのが多いですね。
 また、知っているとは頭で知っていると言うよりも人格的な交わりの意味が含まれています。彫刻された仏像を礼拝する場合、美的精神的瞑想的な体験をするでしょうが、人格的な交わりは生まれません。22節の「救いはユダヤ人から出る」とはこう言うことです。ユダヤ人としてお生まれになられたイエス・キリストから救いを与えられ、このキリストによってまことの礼拝が、神様との人格的な交わりとしての礼拝が始まる、と言う事です。ヨハネは福音書の他に手紙を書いています。ヨハネの第一の手紙1章3節「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです(465)」はこの人格的な交わりとしての礼拝の事を伝えています。

人間が神を礼拝する
 23節、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」。神様は人間を救う計画をお立てに成りました。礼拝者として造られているのに、まことの礼拝をしていない故に魂に渇きを覚える人間が、イエス・キリストによって神様と人格的に結ばれてその交わりの中に入れられ、まことの礼拝者となります。今こうしてイエス・キリストによって神様を礼拝できる事は計り知れない恵みです。我にさえ及べり恵みです。
 旧約聖書は人間の礼拝の歴史を伝えています。神の礼拝者として生きる為に、神のかたちに似せて造られた人間でしたが、エデンで神様が人に呼び掛けたが人は禁断の実を食べたので神の前に出られず、もはや礼拝できない者になってしまいました。そこから神様の救いの歴史が始まりました。神をないがしろにするエルサレムの神殿から、神は離れざるを得なくなり侵略者によって神殿が破壊されます。後に神殿は再建されるのですが人間の神に対する態度は変わりませんでした。旧約聖書の結論は「まことの礼拝がどうしても出来なくなってしまった人間を、私は何とか救いたいのだ」と言う神の叫びでありました。
 皆さん、神と私達との間に障害物がありませんでしょうか。これを罪と言います。その全ての障害物をイエス・キリスト御自身が背負って下さいます。そして、私達が神との交わりに入れるように、つまり礼拝できるようにして下さるのであります。「神を礼拝する」ではなくて「父を礼拝する」とイエス様は繰り返しおっしゃいます。単に障害物を取り除くだけではありません。私達が神の子と言う交わりに入って、神の子として神を父として礼拝するために、イエス様がおられます。

霊とまこと
 この礼拝は「霊」と「まこと」とを持ってします。現代では霊と聞くと、目に見えないオカルト的な、いかがわしいものを連想しますが、ここで言われている霊は違います。24節に「神は霊ですから」霊をもって礼拝すると説明されています。
 「霊」と言う言葉は、神の人間に対する姿勢・接し方を表しています。どんな姿勢・接し方なのでしょうか。これからお付き合いする相手が自分にどの様な姿勢・接し方をするのか、大変重要になって来ます。霊の事は270ガラテヤ5章16節以下に詳しく書いてあります。22節「しかし、御霊(神の霊、人間に対する姿勢、接し方)の実(それは何を生み出すか)は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって」と記されています。その代表が愛です。神様の人間に対する姿勢・接し方が、相手に愛を生みます。愛を生むのは愛ですね。ですから、霊とは愛です。愛と言えば336第一コリント13章4節を思い出します。「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。・・・」これは私たちの事ではなくて神様の愛です。この神様の愛に答える形で礼拝するのは当然ですね。これが霊をもって礼拝する事です。
 「まこと」を持って礼拝する。これも同じです。神様がまことだからです。「まこと」とは「真理」とか「真実」と他の箇所では翻訳されています。331コリント第一10章13節「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて下さいます。」
 「霊とまこと」とは両方とも神の私達に対する姿勢、接し方の事です。このことに目を開かせて下さるのがイエス・キリストです。ですから、霊とまこととによる礼拝は、イエス・キリストに私達が確り繋がる中で生まれて来るものです。
 25節このスカルの女は礼拝の話を聞いてから、次にキリストの事を尋ねました。この女は幸いな人ですね。礼拝の事でええ話を聞かせてもらった、と言う事で終わらないで確りポイントを押えています。キリストがポイントなんですね。一切の事を知らせて下さるキリストに繋がる事がポイントです。26節イエス様がこの様にご自分の事を明かされるのは、弟子以外ではこの女と9章の生まれつき目が見えない人の二人だけです。

 皆さん、イエス・キリストに確り繋がって下さい。ここがポイントです。洗礼とはキリストと結ばれる事です。神の子としての人生が始まります。それはまことの礼拝者としての始まりです。スカルの女に会って最初にイエス様は言われました14節「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」これは、霊とまこととをもって礼拝する者に与えられる恵みを言っておられたのです。この一年ここに集まる度に祈りましょう。「主よ、その水を私に下さい。」

説教要旨
 神は人を神のかたちに造られた。神と向かい合う、交わる存在として、すなわち礼拝者にとして造られた。しかし、人は神に背を向け、神から離れ、自己中心な礼拝者に変質して行った。これを罪と言う。聖書はその歴史を伝えている。魂の渇きの原因はここにある。神はその独り子イエス・キリストにいっさいの罪を負わせ、人が本来の礼拝者として歩み、魂の渇きが癒され、永遠の命にまで至るようにして下さった。
 キリストに繋がる事によって、神との関係が回復し、神の私達に対する姿勢・接し方・愛(霊とまこと)に目が開かれ、それに答える礼拝者へと変えられて行く。そして神が与えられたあなたの命が本当の意味で開花する。

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