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「 主のもの 」 (末吉百合香師)

聖 書
出エジプト記12章21-31節 13章1-16節
12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。
12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
12:23 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。
12:25 また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。
12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、
12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。
12:28 こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。
12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。
12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。
13:1 主はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」
13:3 モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。
13:4 アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。
13:5 主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。
13:6 七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は主への祭りである。
13:7 種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。
13:8 その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ。』と言いなさい。
13:9 これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。
13:10 あなたはこのおきてを年々その定められた時に守りなさい
13:11 主が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜わるとき、
13:12 すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。
13:13 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。
13:14 後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか。』と言うときは、彼に言いなさい。『主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。
13:15 パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、主にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。』
13:16 これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」

誰のもの
 私たちが今静まって考えるべきことは、「今、誰のものとなっているか」ということです。「わたしは誰のものでもなく自分のものだ」と言う人は、自分を自分の思い通りに出来るかを考えて見ると良いでしょう。すぐに答えが出ます。それは「ノー」です。私たちは自分のものではないのです。では誰のものなのでしょうか。これは大きな問題です。
 例えば、私たちは与えられた境遇とか、状況によって自分自身を失い、それに呑み込まれてしまうことがあります。そう言う時その人にとって「わたしは誰のものなのか」と言うことが問題に成ります。死と隣り合わせになる時がそういう時でしょう。病気や事故や別離等があります。しかし、それは特別のことだという思いの中で、大半の人はこの問題に関心を示さず、横に置いたままです。なぜなら、それを意識しなくても、毎日の生活には支障が無いからです。実は支障が起こっているのですが、それに気付かないだけなのです。自分が誰のものであるかと言うことは重要問題なのです。
みなさん、私たちは誰のものであるのが良いのでしょうか。使徒パウロは言います。ローマ6章16節「知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」神のものになるのか、罪のものになるのか、どちらかである、その他はないとパウロは伝えています。
この世の、名声、財産、艱難、不安、空虚、病、死、それらは私たちを奴隷にします。「罪の奴隷」になると、人は「自分は無価値だ」という思いに渡されます。一方、「神の奴隷、神のもの」となった人は、どの様な状況の時でも、掛け替えの無い価値ある者として神の愛を受けます。イザヤ43章4節で「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と神さまはおっしゃっているからです。

イスラエルの解放 
 かつて主なる神さまは、力強い御手をもって、エジプトの奴隷になっていたイスラエルの人々を導き出して、神のものとされました。今から約3300年前ではないかと言われています。
エジプトで奴隷となっていた人々は、厳しい強制労働が科せられ、生活の苦しさと戦っていました。そんな時にモーセが神から遣わされて来ました。しかし、モーセはエジプトで革命を起こして苦しんでいる人を助けて、社会を変革しようとした人ではありません。実は人々の戦いにはもう一つの戦いがあったのです。「自分たちは見捨てられた者」「いくら頑張ってもこの世では所詮、無価値な者」と言う思いとの戦いです。モーセが遣わされたのはこちらの方の戦いに勝利するためでした。しかし両方とも、苦戦していました。人々には、モーセがどんなに頑張っても、もう勝つ見込みは無いと思えました。
ある日、何時もの様に厳しい労働を終えて帰って来たら、「羊を一頭丸ごと料理して食べなさい」と言う知らせが回って来ました。それは結婚式の様なお祝いの食事でした。明日の朝、神様が私たちをエジプトから脱出させてくださるというのです。ですから、朝までに食べなければ成りません。パンはゆっくりと発酵させている時間はなく、酵母無しで焼きます。脱出する日の分もコネ鉢に作っておく必要があります。今夜はホームウエアーに着替えてゆっくりとくつろぐ暇はありません。旅支度のまま食事をするのです。そして、家の入り口の鴨居と両側の柱に羊の血を塗らなければなりません。
何が起こるのか、どうなるのか予想もつきません。しかし、一つだけこのことは分かりました。それは、神様が目を留めてくださるということです。奴隷はお金を払って買い取らなければ、主人の下から連れ出せない存在ですね。その立場にあるイスラエルを神様はエジブトから買い取って下さると言うのです。「神のもの」とするとおっしゃるのです。
人々は思いました。本当だろうか。今までにもモーセを通して神さまはエジプトの王にいくつもの災いを行われたが、王は私たちを手放さないと聞いている。明日もまた厳しい労働が待っているのではないか。それならこんなことやってられない、早く寝よう、そう考えることも出来ました。しかし、信じて、聞いた通りに行ったのでした。この時のことをヘブル11章28節は伝えます。「信仰によって、初子を滅ぼすものが彼らに触れることの無いように、彼は過ぎ越しと血の注ぎとを行いました。」
その夜、神さまはエジプトの初子の命をイスラエルの人々のために犠牲にされました。入り口に塗った子羊の血によって、イスラエルの家は神さまが過ぎこされたので、初子の命は守られました。
王はとうとうイスラエルの人々を手放しました。この時、イスラエルは子羊の血によって、エジプトの奴隷から解放され、神のものとなりました。
現在の神のもの
このことは、現在の私たちにおいては、キリストの十字架の贖いに通じます。キリストが十字架で流された血潮はイスラエルが神のものとされるために流された子羊の血と重なります。キリストの命は私たちを罪の奴隷から買い取って「神のもの」とするためです。ですから、キリストを「神の子羊」とも呼びますね。主イエスを信じ、イエスさまをあなたの人生にお迎えしてください。そうするなら、あなたは他のものの奴隷から神のものになります。すると「自分は無価値だ」と言う思いから解放されます。そして、神に愛されている自分、神のものとして生きて行けるのです。しかし、神のものとなった人生にも艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣はあります。しかし、ローマ8章37節は宣言します。「しかし、わたしたちは、わたしたちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」これが「神のもの」であることの幸いです。
まだ神のものとなっておられない方は、今イエスさまをあなたの人生にお迎えください。酵母を入れないパンは、ちょっと時間をおいてからではなくて、今すぐそうしなさい、と勧めています。また、急いでエジプトから去ることは、「自分は無価値だ」と言う思いから直ちに離れるようにと勧めています。

また、この昔の事件を後世へ永久に伝えるように定められたことによって、私たちの教会もこの儀式を、キリストを通して受け継いでいます。それは聖餐です。動物を屠り、その血を家の入り口の鴨居と柱に塗る代わりに、キリストの血としての葡萄の汁をいただきます。酵母の入らないパンを七日間食べる代わりに、酵母の入っていないパンをキリストの体として頂いています。初子の奉献は、献児式、洗礼式、また収入からまず最初に献金を聖別する等の形で受け継がれています。

私たちは、日々、「自分は今誰のものか」と確認しましょう。罪は神のものを誘惑するからです。エジプトを出て、シナイ山で正式に「神のもの」としての契約をした三日後に、民はエジプトに帰りたい、なぜこんな所に連れ出したのか、と言い出しました。私たちも同じだからです。
 
 最後に使徒パウロが神のものとして歩む人生について伝えている言葉を読みます。
 2コリント4章8-9節「わたしたちは、四方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れていますが行き詰ることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。打ち倒されますが、滅びません。」

説教要旨
 私たちは今、誰のものでしょうか?自分は自分のもの?神さまはエジプトのもの(奴隷)であったイスラエルという小さな民を、ご自分のものとするために救い出されました。このことは、現代の私たちに罪の奴隷から「神のもの」とされる幸いを伝えています。この世には、私たちを奴隷にするものは限りなくあります。名声、財産、艱難、不安、空虚、病、死・・。しかし、キリストの愛によって救いを受けたものは、それら全てから解放されています。何故なら、神の子キリストはご自分のいのちと引き換えにするほどに貴方は尊いとおっしゃるからです。

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