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「今、行け」 (末吉百合香師)

聖 書
出エジプト2章11節-3章12節
2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。
2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。
2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。
2:16 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、
2:17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。
2:18 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。」
2:19 彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」
2:20 父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」
2:21 モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。
2:22 彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ。」と言ったからである。
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役のびは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

ストップした人生
 二人の助産婦と両親と姉の神さまへの信仰によって、いのち与えられた男、モーセは成人します。その名前の意味は「水から取り上げられた者」です。彼はエジプトのナイル川に捨てられた子どもでした。幸いエジプトの王女に拾われエジプト人として育てられます。エジプト人はヘブル人を虐待していました。モーセが成人した時、自分がそのヘブル人であることが分かり、大きな衝撃を受けました。そして、彼は殺人を犯し、指名手配を受け逃亡の身となりエジプトからミディアンの地に逃げました。そこで知り合った娘と結婚し子どもが与えられ、イテロ家の婿として羊飼いの仕事をすることになりました。そして、長い年月がたちモーセはもう80才近くに成りました。後にモーセがエジプトに行く時4章18節で「エジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください」とミディアンの家族に嘘をついていますから、自分のことは秘密にしていたようです。捨て子で殺人犯として指名手配されている逃亡者、ヘブル人モーセの人生はストップしたままのように感じていました。 
弱くはかない人間
そんな時にモーセは燃えている柴を見ます。柴とは芝生の芝ではありません。それは乾燥した所に生える棘のある茨の様な植物のことです。乾燥地帯では植物が自然発火することがあります。そう言う光景は羊飼いで野外にいる機会の多いモーセにとって珍しいことではありません。柴は燃えてしまっても別に惜しまれない無価値な植物です。モーセはその柴とストップした自分の人生を重ね合わせ、同じ無価値なものだと思いました。もう、燃えてなくなるしかない。それが自分の人生。しかし、これで良いのだろうか。モーセはそんなことを考えていたと思います。
そんな時に、燃えている柴が燃え尽きないでいるのに気付きました。「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」彼は大変興味を持ちました。私たちはモーセが見た柴を見ることは出来ません。しかし、私たちは今、キリストを信じてキリストと結ばれた者にそのことを見ることができます。クリスチャンも燃えてしまう柴と同じで、弱さがあります。空しさを背負っています。しかし、そこに燃え尽きない何かがあるのです。それを使徒パウロは2コリント4章11節で「死ぬはずのこの身にイエスの命があらわれる」と言いました。ローマ8章11節でも「死ぬはずの体をも生かしてくださる」と言いました。また、2コリント12章9節「キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とも言いました。
教会の2000年の伝統の中で、燃え尽きない柴はキリストに結ばれたキリスト者のシンボルとなりました。みなさん、クリスチャンは燃えない柴ではありません。弱さと空しさを背負う、生身の体を持った燃える柴です。しかし、キリストの故に燃え尽きないのです。キリストに結ばれ繋がっている時、そこに不思議なことが起こるのです。教会に来る新来会の人の大半はクリスチャンを見て「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行って、この大いなる光景をみることにしよう。」と思って来られます。私たちは、しっかりとキリストに結ばれましょう。しっかりとキリストと繋がりましょう。これはキリスト者の基本です。
燃える柴はしるし 
さて、神さまはストップしたままに見えたモーセの人生を、実は前に進めようと計画しておられました。モーセが燃える柴に近づこうとしたとき、「モーセ、モーセ」と名を呼ばれます。彼は「はい、ここにおります」と答えます。驚くこともなく答えています。まるで、呼んでいる方を知っているかのように、冷静ですね。燃え尽きない柴を見たとき、彼は自分の人生を進める何かを期待していたのでしょうか。モーセがミディアンの地に来たのは40歳の時、過ごした年月は40年、もう80歳です。燃え尽きない柴を見たとき、彼は自分の人生の締めくくりに珍しいものを見せてもらったと思ったかもしれません。しかし、燃える柴は神さまからの人生を前に進めなさいという「しるし」だったのです。モーセがストップしていると考えていた時間は、そうではなかったのです。この日のための準備期間だったのです。エジプトの王子から羊飼いになったモーセは、多くの困難を経験したでしょう。王家の英才教育を受け成人したのですから、家畜の餌やりや糞の後始末、また、羊を襲う獣との対決等など、そんなことをするとは思いも及ばなかったでしょう。しかし、それらはすべてこの時の備えの期間だったのです。私たちの人生も、平凡過ぎると感じたり、無意味と感じたり、或いは逆に耐えられないと感じる時があるかもしれません。しかし、今朝聖書は決してそうではない、一日一日が神さまに遣わされるための準備なのだ、訓練の時なのだと言います。

モーセは燃える柴から神さまのメッセージを聞きます。10節「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れだせ」これはなかなか受け入れられない事でした。エジプトを出る前、同胞を助けたにも関わらず、その同胞に受け入れられなかったからです。11節で「わたしはいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」と答えます。13節では、自分の遣わす神の名を聞かれたら何と答えたらよいのですかと尋ね、4章1節では「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう」、10節「私は言葉の人ではありません。・・私は口が重く、舌が重いのです」、13節「どうか他の人を遣わしください。」と何度も拒みます。モーセは考えれば考えるほど心配になって、神様に「はい、分かりました。エジプトへ行きます」と答えられませんでした。
 そんな彼でしたが、しかし120歳までの40年間、エジプトにいる同胞の為にそのストップしていた人生を進めました。モーセに何が起こったのでしょうか。何が彼を前へ進ませたのでしょうか。
御言葉の保障
それは3章12節の約束の言葉です。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ」
神さまはモーセに御言葉による保証を与えてくださいました。この御言葉の保障によって、彼は止まっていた人生を、積極的に自信を持って前に進めたのです。へブル人への手紙11章24節以下に「信仰によって彼は、キリストの故に受けるそしりをエジプトの宝に勝る大きな富と思いました」とあります。神さまの御用によって受けるそしりは、エジプトの宝より遥かに大きいと受け取る信仰を頂いたのです。
 私たちも自分の人生を、積極的に自信を持って前に進めたいですね。神さまは私たちにも「今、行け」とおっしゃいます。現実がいかなる状況であっても「前に進め」とおっしゃいます。
 
わたしたちの罪を赦すために十字架にかかってくださったキリストは、必ず私たちと共にいて下さるお方です。三日目に死人の中から復活されたキリストは、私たちがたとえ死の影の谷を行く時も、必ず共にいて下さるお方です。このキリストそこ、神がわたしたちを今遣わされる「しるし」です。今の時、今の場所、今の立場、そこに私たちも遣わされています。私たちだけではありません。キリストは全ての人の為に死に、復活なさいました。これによって全ての人が、それぞれの国で、それぞれの場所に遣わされている存在なのです。
 出エジプト2章24節に注目してください。神さまはアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こして、モーセを遣わされました。そして、今わたしたちをも遣わされます。遣わされている理由がこの契約にあります。創世記22章18節、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」キリストこそアブラハムの子孫です。
キリストを伝える事は、神さまの祝福が備えられていることを伝えることです。クリスチャンにはこの使命が最後まで与えられています。このことを証しするために、まず私たちが感謝して、希望をもって、諦めないで、前に向かって与えられた命を最後まで生き抜きましょう。 
説教要旨
水の中から拾い上げられ、エジプトの王子として成長したモーセだったが、一つの事件によって殺人犯となり、ミディアンの地に逃亡の身となる。羊飼いの日々を過ごす彼の人生は、まるで止まったままの人生だった。ある日燃えない柴の前に立つ。それは、「今、行け」との主からの召命の場。拒否し続けたモーセだったが、御言葉の保障の故に彼は立ち上がる。「わたしはあなたとともにいる」。神が共におられることは、他の何ものにも勝るものは無い。

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