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「 わたしが主である 」 (末吉百合香師)

聖 書
出エジプト記14章1-18節
14:1 主はモーセに告げて仰せられた。
14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。
14:3 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。
14:4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。
14:5 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」
14:6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。
14:8 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。
14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。
14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
14:15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。
14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。
14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」

神さまとの関係は?
 「神様とこの現実と、実際どんな関わりがあるのだろうか?」と疑問に思うのは私たちだけではありません。実は、今朝の箇所に登場する、神様の力によってエジプトの奴隷から解放され、エジプトから逃げて来た人々も同じでした。この人たちは「神の民」と呼ばれていました。この神の民の子孫の歴史が旧約聖書全体の中に記録されています。彼らは神を信じて歩んだのですが、絶えずこの疑問が心に起こりました。信仰とは、その疑問と対決しながら神様を信じて行くことでした。この対決は大小ありますが日々起こりました。それで彼らは歌を作りました。信仰の歌を口ずさんで日々歩んだのです。
 それは、かつて神様が行われた御業を仰ぐ歌でした。詩編66番もその歌の一つです。5-6節を読みます。「さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。」神様はご自分の民を連れて歴史を歩まれました。その中で忘れられない事件が、この出エジプト記14章の出来事でした。

 先週「まわり道」と言う題で説教しました。エジプトを脱出して逃げるのですが、弱い者と共に進むために神様は近道ではなくて「まわり道」を選ばれました。そして、今回、道を引き返す事を2節で命じられます。これは遠くから見ているパロの目には道に迷い、荒れ野が行く手をふさいだように見えます。そして、海辺に宿営させます。逃げるのならそんな所に宿営させるべきではありません。もし追っ手が来たら、逃げ場を失うからです。次に、神様はパロの心に働き掛けて、神を畏れる心から、かたくなな心に変化させ、エジプトの奴隷として元に連れ戻させようとされました。神様はどうしてこんな事をなさるのでしょうか。神様は何を考えておられるのでしょうか。私たちにはなかなか理解できませんね。
そして、とうとう予想通りになりました。9、10節「エジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も軍勢も、ことごとくバアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんとエジプト人が彼らの後に追っているではないか。」もう、絶体絶命のピンチでした。その時、彼らは心の思いを叫びます。11節と12節がそれです。それは「自分たちと神様はやっぱり無関係なんだ」と言う内容です。
 
私たちの人生でもピンチに立たされます。そして、自分のことで「どうして、こんなことになるのだろう。神様は何を考えているんだ。」と神様との関係を疑うような時が正直あります。また、日々新聞やニュースの事件を見て、自分以外のことでも「どうしてこんなことになるのだろう。神様は何をしておられるのだろうか。この問題は解決できない、諦めるしかない事なのだろうか」と神様との関係を疑う時があります。

神は必ず関わっておられる 
そんな時に神の民は、神の御業を仰ぎました。これはただ「昔こんなことがあったなあ」と思い出すことではありません。神の御業を仰ぐとは、昔起こった事は今の私のためにも起こった事なのだ、と信じる事です。つまり、今日の箇所を通して自分の現実と神様は決して無関係ではなく、必ず関わっておられると信じなさいと言われているのです。

今日の続きの箇所を読みましょう。19節以下、ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは移って、彼らの後を進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らの後ろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ黒な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。そのとき、モーセが手を海の上に差し延ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を進んで行った。エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。(省略)主はエジプトの陣営をかき乱された。その戦車の車輪を外して進むのを困難にされた。それで、エジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられるのだから」30節こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。

この出来事を通して神さまは、ご自分がエジプトに対して、また、イスラエルに対しても「わたしが主である」と宣言されます。すなわち私たちの現実の中に「私は関わっている」と今朝おっしゃいます。

いかなる人にも主は関わられる 
新約聖書で、生まれつき目の見えない人が聖書に登場します。生まれつき目が見えないと言う現実を弟子たちが見て言いました。「彼は罪によって神様と無関係になっている。」それで誰が罪を犯したのかと言う議論が起こり、キリストにその件について質問しました。すると、キリストは意外な答えをなさったのです。「この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯し、あるいは両親が罪を犯して神と無関係になっているのではありません。この人が生まれつき目が見えないのは、神の業がこの人に現れるためなのです。」と。人の目から見て、不幸だと見える事柄に対して、キリストは「否」とおっしゃり、「父なる神様はこの人とも確かに関わっておられる」と宣言されたのです。
 
神の民の歴史はエジプトを脱出してキリスト誕生まで約1200年あります。小さい小さい集団でした。その間、大国が興り、そして、消えて行き、世界は変動しました。その影響をもろに受けました。しかし、その中で神の御業を仰いで生き抜いて来たのです。それは絶えず「神様と、この現実と、実際どんな関わりがあるのだろうか?」と言う疑問との対決でした。彼らが歌った歌にこんな歌があります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」詩編22編の最初の一節です。そして、この歌は途中から「しかし、主を賛美せよ。」(23節)と変化します。
 キリストが十字架に磔にされ、死ぬ間際にこの歌を大声で歌われました。余りに苦しいのでそれは歌ではなくて叫び声に聞こえました。そして、その歌は最初の一節で途切れてしまいました。1200年間歌を歌いながら、「神様と、この現実と、実際どんな関わりがあるのだろうか?」と言う疑問と対決しながら信仰して来た神の民にとってこれは大変ショックでした。
 しかし、神様は三日目にキリストを死人の中から甦らせたのです。キリストの復活はあの詩編22編の歌の続きとなりました。「しかし、主を賛美せよ。」

みなさん、私たち教会は次のことを信じるのです。「キリストを死者の中から復活させた方は、この死ぬはずの体をも生かしてくださる。」この体は決して神と無関係ではない、と。今までは無関係だ、そう思っていたかも知れません。しかし、キリストにおいて現された神の御業を仰ぐとき、人の命は全く新しい命となります。この命とはキリストを死者の中から復活させた方の御業が現される命のことです。これは神秘です。しかし、これが神さまの計画です。
 キリストは苦しむ必要がありませんでした。神の子なのだから苦しみを取り除くのは簡単なことです。しかし、苦しむことを選ばれました。それは人間と同じになられたということです。神が関わっておられるのだろうか、と疑いを持たざるを得ない、死ぬべき体を生きられたということです。そして、神はそのキリストを復活させて、死ぬべき体に神が関わっておられる「全く新しい命だ」と宣言されたのです。
 この新しい命の故に、命はますます大切になってきます。精一杯生きることに関して、命を傷つけないことに関して、(これは自分の命と同様に他者の命もです)キリストを信じる前とは同じではありません。キリストを信じるとは、そこが変わってくるのです。
 私たちは、このキリストによる新しい命に招かれています。
説教要旨
 前方には葦の海。うしろにはエジプト軍。絶体絶命のピンチ!この出来事を計画されたのは他でもない神様だった。エジプトの奴隷から救うと約束されたお方が、何故こんな計画をされるのだろうか?「わたしの思いはあなたたちの思いとは異なり・・と主は言われる」イザヤ55章8節を思う。神さまのご計画は、神の神秘。すなわちその計画とは、人間創造の初めからのご計画。神さまが私たちの全てに関わってくださる、というのだ。故に詩人はこの信仰の歌を歌った。詩編23編4節「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」

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